韓国の知性、新しい時代を語る

韓国の知性、新しい時代を語る第14回


大いなる積功、大転換のために ――2013年体制論以後 (後編)
                                        白楽晴

5.「より基本的なこと」

・常識、教養、良心、廉恥……そして教育
 「『2013年体制』を準備しよう」でも、私は政治や経済問題よりも「より基本的なこと」に注目した。
 さて、2013年体制の設計には南北連合とか、福祉国家とか、東アジア共同体という壮大なビジョンよりも、はるかに基本的で、ともすれば初歩的ともいえる問題を含めるべきである。人間の社会生活で基本になるものを蘇らせる時代にしなければならないのである。例えば、大統領をはじめとする高位公職者や指導的な政治家はとんでもない嘘をついてはならないということ。もちろん、政治家すべてが聖人君子になれとか、国政の運営を完全に公開しろという話ではない。ただあまりにも頻繁に、あまりにも見えすいた嘘をつくとか、あまりにも簡単に言葉を変えては困るのだ。それでは社会がまともに動かないし、正常な言語生活さえ脅かされる。(同27頁、拙訳『韓国民主化2.0』、岩波書店、2012年、173〜74頁)
 大きく見れば、これらすべてが常識と教養および人間的羞恥の回復という問題に立ち戻る。(同31頁、同書177頁)

 朴槿恵候補の当選には、彼女が少なくともこうした基本、つまり個人的正直さと教養をある程度備えた候補というイメージが大きく寄与した。だが、大統領になった後は国民との約束を覆して前言訂正を繰り返す事態が相次ぎ、「ウソをつかない政治家」というイメージが「ウソに明け暮れる商売人」のイメージ以上に、国民をだますのにより効果的だった面もある。その上、よくウソをついて国民を愚弄する高位公職者を側近にしてかばうので、力のある者はそれでもいいという雰囲気を社会全般に拡散させた。この問題は政界だけでは解決できない性質なのは明らかだが29)、大統領がいかなる言行や態度を示し、その治下でいかなる人々が勢力を張るかが莫大な影響を及ぼす点を実感せざるを得ない。セウォル号の遺族を無慈悲に侮辱し、嘲弄する政界内外の多くの言行や態度が実証するように、最近ほど破廉恥な人間が自らの破廉恥ぶりを誇示する時期はなかったと思う。もちろん、独裁時代には非常に強力な物理的打撃と弾圧が横行したが、それでも大多数の人の心の中にはそれは過ちだという情緒があったと記憶する。

 そうだとして、次の大統領選挙をうまくこなすことに今から没頭する政治中毒症、選挙中毒症は、こうした社会風潮を育てる要因になるだけだ。陳恩英が語る「選挙のみに収斂されない政治的活動」の日常化を含め、より根本的かつ多角的な対応を練磨すべきである。この場合、直接的に大きな影響を及ぼす分野として言論や市民運動が考えられるが、長期で見れば、教育と文化芸術を通じて社会の体質を変えることが重要だと思う。

 その中でも、学校教育は国家の莫大な財政が投入される分野で、中学校までは義務教育なので、国家の将来を設計する点において包括的かつ精巧な教育構想が必須である。優れた人材の輩出を最終的に左右するのは優れた大学の存在が決定的だが、「基本的なこと」を考える場なだけに初等・中等教育を中心に考えてみたいと思う。

 この間、与野党ともこれと言うべきビジョンを提出したことがないのが教育分野なので、学校教育正常化の画期的方案が提出される場合、選挙勝利の重大な変数になるかもしれないという期待を2013年体制論でも表明した(『つくり』84〜85頁)。もちろん2012年選挙では、どの候補もそうした方案を提出しなかったし、教育が重要な争点にもならなかった。だが、2014年統一地方選挙でいわゆる進歩派教育長が大挙当選したので、今後新たな局面が展開される兆しがある。教育領域では有権者が政界の与野対立とは異なるレベルで接近するという事実が確認されたし、教育こそ草の根の民生問題に当たるという認識が共有されるに至った。また、今後3年余にわたる教育長の実験と業績は教育議題の整理と具体化にまたとない貴重な資料になるだろう。例えば、2008年ロウソクデモを触発した女子生徒の「どうかもう少し食べさせて、もう少し寝かせて」という絶叫が一部の教育庁で反響を呼び始めたが、自分の子がご飯を減らし、睡眠を減らしてでも競争に勝つ姿を見たいという父母をどれだけ説得できるのか、様子を見たい(登校時間の繰り下げの賛否をこのように整理できるわけはなく、教育現場において学生の福祉と多数の父母が代表する現行の教育イデオロギーの間に矛盾が存在するという意味)。ともあれ、各地の教育長と教育庁レベルで可能なこと、よき中央政府とよき教育省トップに可能なこと、そして全社会が力を合わせて長期的に追求すべきことを識別し、一層緻密に追求する作業が可能になった局面である。2017年大統領選挙でこそ、「教育を握る者が大統領を握る」という命題が成立するかもしれない30)。

 教育現場の細部の点検と議題を具体化する作業は経験と識見を備えた人々に任せ、私は議題設定において短期・中期・長期の課題の正確な識別と適切な配合が必要なことを再度強調したいと思う。例えば、全教組(全国教員組合)と一部の進歩的な教育運動団体が提示する「平等教育」の理念も、異なる時間の幅に合わせて検証する必要がある。まずその短期的意義は、しだいに既得権層中心の競争へと引き寄せられる教育現実に反対する名分なのだが、その効果は必ずしも有利な点ばかりではない。理念偏重のわがままという反駁に直面しやすいからだ(実際、先日の教育長選挙で全教組出身の候補者でさえ「平等教育」の代わりに「革新教育」を標榜した)。中期的には、例えばフィンランドのように、韓国よりはるかに平等ながらも学習達成度が高い教育体制を導入しようという主張がありうるし、これは十分に説得力ある主張である。ただ、フィンランドと大きく異なる韓国の現実に合わせて設計された方案を提出する宿題が残される。

 「より基本的なこと」と教育の緊密な関連は、「人性教育」の重要性が最近またぐっと強調される点にもうかがえる。人性教育を口実にして民主市民教育を弱体化させようとする与党一角の動きは、彼らが考える人性の水準を推測させるだけだが、真の人間性の問題が道徳科目の授業や教師による訓話で解決されないのは自明である。そうだとして、人文学者がすぐ強調する人文学の読書も充分な答ではないようだ。伝統的に人格完成の過程で人文学古典の読書を最も重視したのが儒教だが、儒教でも礼と楽をより基本だと考え、古典学習の出発となった『小学』を通じて振舞いを正すのに焦点を当てた。私が思うに、現代の初・中等教育では幼い頃は学校に来て、健康で楽しく飛び跳ねる経験が基礎を成し、ここに学生各自の素質と好みに適う芸術教育、適当な分量の労作教育が加味されるべきだろう。そして、学年が上がるにつれて少しずつ増えていく知識教育が合わさり、現在のように試験の点数を高める固定化した知識の習得よりも、人文的読書が一層大きな比重をもつのが正しい。

 これだけでも、わが社会は大いなる転換を達成し、「基本」を備えた人間の生きる場になるだろう。だが、短期的に可能なことではない。特に、欠損国家を補正する分断体制の克服作業を伴わずに、南でのみ転換が達成できると信ずるなら、これまた「後天性分断認識欠乏症候群」31)の典型例になるだろう。また逆に、分断体制の克服過程自体がこうした積功と転換を要求するとも言える。

 少なくとも長期的には、完全な平等社会内の平等教育を目標とするのが進歩主義者の当然の姿勢だと思われる。だが、前述したように、民衆自らが治める完全な民主社会に、果たしていかなる位階秩序が許容または必要とされるかの問題に従い32)、少なくとも教育の場合、何であれ、よく出来る人から学び、よりできない人を教える垂直的関係の介入が不可避である。しかし、このように学んで教える内容には、一切の物質的または身分的な不平等が排除された社会を建設して維持するために必要な知恵の偏差を認知し、尊重する習性が含められるべきではないか。その点、今のような不平等教育は当然克服されるべきだが、平等自体を最善の長期目標と見なすのか、疑問の余地がある。ともあれ、教育議題の設定でも、そうした様々なレベルの検討と省察をすればと思う。

・「カネより命」
 セウォル号事件を経験して多くの人が共鳴したスローガンが「カネより命」である。ここには様々な種類の欲求が込められており、そのどれか一つだけを絶対化してはスローガンの訴える力が損傷されやすい。
 それは一次的に、身体的な生命の安全性こそ、民主や福祉、統一などを言う以前の「基本」に該当するという自覚であり、絶叫である。この基本さえ守れない社会と国家に対する憤怒の表出でもある。これに対し、政府や政治家は我も我もと「安全な社会」を約束しているが、まだ特に実効性は感知されておらず、実は「安全」のみに没頭するのが正しい答でもない。安全事故は減らすことはできても根絶しがたいし、「命」もまたいくら命の保存が基本だとしても、「冒険」を耐え忍んで命らしくなる面があり、時にはより大きな意味で「永遠の命」のために犠牲になりうることもある。

 まさにそのために「無条件に安全」ではなく、「カネより命」である。つまり、無意味な生命の損失を招く、個人および企業の貪欲に対する拒否である。だが、カネに対する人間の欲望をむやみに罪悪視してはならず、セウォル号惨事の責任をすべて「新自由主義」に転嫁するのも「カネより命」への共感をむしろ弱める道である。セウォル号惨事の場合、企業家の貪欲と新自由主義的な規制緩和、金銭万能の風潮に染まった社会の堕落と責任回避が原因になったのは明らかである。しかし、後に公開されたユン一等兵事件など軍隊内での残酷な事件が新自由主義より長年の軍事主義文化の産物であり、セウォル号問題を避ける大統領の態度がまさに前近代的な権威主義を想起させるように、新自由主義は複雑な現象を分析する時に動員すべき様々な概念の道具の一つに過ぎない。

 新自由主義の比重が一層明確な安全問題として、頻発する労働現場における安全事故やストライキ労働者をいわゆる損賠訴仮押留(損害賠償訴訟による財産仮押留)などで圧迫し、自殺事件を引き起こす事態が挙げられよう33)。また、医療民営化による医療費の値上げも貧しい人々の命と安全に対する深刻な脅威である。だが、これらの場合も「新自由主義反対」だけで効果的な闘争が可能なのか再考すべきだ。生命の損失は正規職、非正規職を問わず悲惨であるが、勤労の現実は正規職か否かによってひどく異なり、あらゆる労働問題を企業の貪欲だけに転嫁するとか、非正規職の根絶を叫ぶだけでは国民多数の共感を得がたい。医療問題も現在の診療慣行と医療体系、さらに現代医学の限界に対する省察を省略したまま、すべての国民にその恵みを享受させるのが医療の公共性だと主張するのでは答が出るはずがない。

 安全と関連して特に留意すべき問題は、すぐに目に入る事件や事故以外に、徐々に臨界点に向かって近づき、一度勃発すれば収拾がほぼ不可能な大型惨事になる原発事故に備える問題である。この間、原発当局および関連業界が示した無責任と不正直さ、「命よりカネ」優先の思想と、それによる積弊は事故の蓋然性を着実に高めており、釜山や蔚山など大都市近隣の原発密集区域で一度事故が勃発すれば、日本のフクシマ惨事が色あせる大惨劇が起きる局面である。この原発問題こそ、短期・中期・長期対策の配合を自然と要求する。短期的には韓国水力原子力会社、原子力安全委員会などの透明性と責任性の確保、老朽化した原発の稼働延長の禁止、三陟市のように住民の反対が明確な所への原発建設の阻止などがあり、もう少し長期にはすべての原発の新規建設を放棄し、次第に原子力発電から脱皮すること、そしてより長期的には人類社会が生態親和的な生へと転換する課題が同時に提示されるのである。

 生態親和的な生への大転換に原則的な合意でも得る必要が切実なのは、例えば気候変化によるグローバルな災いは、原発事故よりさらに遠いことのように感じやすいが、一度臨界点を超えると、人間の能力では全くどうしようもないので即座の行動が急がれる。だがそれだけに、気候変化の実像に対して科学的にわかる限りわかりながら、科学的知識が不足したら不足したなりに、その時々に必要な行動をとる知恵の練磨が要求される。あわせて生命の概念自体も変わらねばならない。たとえ人間には人間の命が優先であり、従って「人間中心的」な各種の行為が不可避でありうるが、人もまた地球上のすべての生命体と共同の運命にある面があり、実際、すべての生命体が同胞であり、人間は無生物のお蔭もあって生存するという思想が切実に必要になる。「カネより命」というスローガンは、結局こうした次元の生命思想、生態運動にまで転換してこそ、その完全な意味が活かせる。

 「カネ」の問題も決して単純ではない。カネに対する欲望が、どこまでが財貨に対する生活者の正当な欲求で、どこからが「貪欲」に当たるのか、区別は容易ではない。もちろん、資本の無限蓄積を基本原理にして稼働する社会体制は、「命よりカネ」という逆転した原理を追求する体制であるのは明らかだが34)、資本主義世界体制内にすでに入れられた人々はその原理を無視して生きていくのは難しい。だから、資本主義近代世界に適応するが、克服のために適応し、克服の努力が適応の努力と合致する、例の「二重課題」が肝要なのである。

・性差別の撤廃と陰陽の調和
 先ほど労働現場に蔓延した事故の危険に言及したが、近年最も切迫した身辺の安全問題中の一つは、女性が安心して街を歩くことさえ難しい現実である。さらに、子どもや小学生すら強姦や性的暴力にいつも曝されており、その過程で殺されてもいる。これは、わが社会で女性差別の問題が深刻なことを示すと同時に35)、性平等問題の特異な性格を暗示する事例である。こういう場合の安全問題は、企業の貪欲や個人の物欲とは直接関連がない場合が多い。

 性差別の内容も多様である。性犯罪被害者の圧倒的多数が女性だという事実以外に、労働者に対する抑圧も女性勤労者への差別が加重されて起きる。その上、性に関連する差別は確かに男女両性の問題だけではない。性的アイデンティティと志向を異にする様々な個人の問題があり、異性愛者の場合も、未婚の母や婚外同居者に対する差別問題がある。こうした様々な問題間の優先順位をどのように定め、どういう方法で解決するかは多くの練磨と積功を要する。

 中・短期的に相当程度の改善が実現したとしても、性平等社会の実現は容易ではない展望である。男女平等は啓蒙主義の重要な遺産であり、自由主義政治思想の一部をなすが、貧富格差を自らの存在条件とする資本主義体制は、その本質上、性別と人種、地域など各種の差異を差別の根拠に転用して貧富格差を維持し、ごまかす体制なので、資本主義下で性差別主義の廃棄は不可能だという視角がある36)。さらに、性差別は資本主義以前の遠い昔から存在したもので、階級の撤廃よりはるか後になって可能なのが性平等だという主張もある。

 私が特に研究もしていないこの課題に言及するのは、私たちの究極的な目標をどこに置くかという「より基本的な」問いを発することが、特に重要なヤマだと信じるからである。先に列挙した各種の差別の撤廃は当然追求すべきだが、階級自体の撤廃を最終目標とする階級運動とは異なり、性平等運動は性別の撤廃を目標にはできない。また、男女の結合なしに別個に生きようという「分離主義」も女性主義運動の一角を超えて普遍化はできない。高等動物の種族保存の過程では雌雄の結合が必要であり(もちろん例外はあるが)、人間世界における幸福な生のためには――この場合、より多くの例外を認めて十分配慮すべきだろうが――男女の調和ある関係が重大な比重を占める。今日、韓国を含めた世界各地の生がそうした調和ある関係に程遠いのは男女間の権利の違い、またこれによる実力差、言い換えれば大部分の場合、女性に対する不当な差別のせいだと認めれば、性平等社会の追求という課題が短期的な懸案を超える大事であるのは明らかだ。ただ、究極的な目標を「性平等」におくのか、「男女の調和ある関係」におくのかは論議の余地があり、その結果によって短期と中期課題の設定と推進方式にも相当な違いが発生しうる。性平等を至上目標とする場合、何が「差別」で、何が「差異」なのかという論争が絶えず起こりがちで、自らの成熟と幸福のためにも女性解放に寄与してしかるべき男性の説得にも不利になりうるのである。

 ここで、「男女」よりも「陰陽」という東アジアの伝統的概念を動員してみればどうかと思う。現実的に存在してきた伝統社会が家父長的秩序だったのとは別に、太極の陰と陽は支配・被支配がない相補関係であり、大体陽が勝るのが男性で、陰が勝るのが女性であるが、双方が各々陰と陽の両面をもち、陰陽の調和を通じてこそ生命が持続されるものと理解する。従って、性平等自体より陰陽の調和が具現される社会を志向する場合、陰陽の調和を阻害する性差別に対する闘いを当然含むし、平等に該当しない場でも平等に固執する憂慮が減り、調和を増進する方案を男女ともに推進する余地も広がるだろう。

 陰陽調和の概念を真面目に導入するなら、人間世界を超えるはるかに大きな問題に行き当たる。ご存じのように、陰陽(または陰陽五行)は人間関係だけでなく、宇宙全体に適用される概念である。従って、質量と運動など量的特性以外に異なる特性を認めない近代科学の宇宙観と矛盾する。この矛盾を私たちはいかに考えるべきか。近代教育を受けた多くの知識人はここで壁にぶつかるが、まさに現代科学の世界ではニュートンからアインシュタインに至る機械的宇宙観が深刻な挑戦に直面し、「世界に再び呪術をかけること」(re-enchantment of the world)が要請されている37)。プリゴジンらのこの概念が、すぐに東アジアの陰陽論を立証してくれるわけではもちろんない。反面、「複雑系の研究」(complexity studies)という彼らの新しい科学も「世界に再び呪術をかけること」の第一歩に過ぎないので、中性的だけではない時空間がいかなる特性をもって運行されるかにつき、今後多くの研究が必要だろう。ともあれ、宇宙観自体が変化して人間と自然の調和ある生が模索されている今日、人間社会における陰陽調和に該当する男女関係の追求が、東アジア的宇宙観の潜在力を引出す努力と合わさると、世界観の転換という人類史的課題に貢献することと同時に、眼前の性差別の撤廃や性平等の具現にも力になりうるのではないかと思う。

6.何が変革で、どうして中道なのか

 結論に代え、変革的中道主義に関して多少付け加えたいと思う。

 「変革的中道主義」は、2009年の拙著『どこが中道で、どうして変革なのか』のキーワードに他ならなかった。だが前述したように、選挙の年に出した『2013年体制づくり』で潜伏させようにしたのは、「変革」と「中道」という一見矛盾した結合が多数の有権者を説得できないものだったからだ。その点は今も事実で、現場の選手が適切な方途を見つけだすべきだが、私たちが大いなる積功、大いなる転換を夢見れば見るほど、グローバルで遠大なビジョンと韓国の現場で当面する課題を連結させる実践路線として、変革的中道主義以外に何があるのか、見通しがつきがたい。

 確かに、「変革」は「中道」と括らなくとも、今日の韓国で容易に受け入れられる言葉ではない。戦争勃発のような急激な変化が警戒の対象であるのはもちろん、南北が共存する中、南だけが革命ないし変革を達成できるという主張も共感しがたいからだ。実際、そういう主張を展開する少数勢力がなくはないが、これは空想に近く、例の「後天性分断認識欠乏症候群」の疑いが濃い。

 このように南北双方の内部問題が韓半島全体を網羅する一種の体制内で作動しており、この媒介項を除いてはグローバルな構想と韓国人の現地実践を連結する道がないという点こそ、分断体制論の要諦である。従って、私たちの積功・転換の過程でこうした韓半島体制の根本的変化、つまり南北の段階的再統合を通じて、分断体制より良い社会を建設する作業が核心的なので「変革」を標榜する38)。そして、このために南だけの性急な変革やグローバル次元の漠然とした変革を主張する単純論理を脱する時、広範な中道勢力を確保する「中道主義」が成立しうるのである。

 実際に、それが可能か。「とてもいいお話ですが、それは可能ですか」という問いは、私が討論会のような場で、際限なく直面する質問である。そういう時、私は「もちろん不可能ですよ。皆さんがそんな問いばかりされるなら」と答えるが、よく考えれば、変革的中道主義は切実に必要なだけでなく、唯一可能な改革と統合の路線である。

 拙稿「2013年体制と変革的中道主義」では、「変革的中道主義でないもの」の例を6種類、番号までつけて列挙したが(『創作と批評』2012年秋号、22〜23頁)、そんな調子であれこれ除いたら、どういう勢力が確保できるのかとの反駁を聞いた。ありそうな誤解に弁明すれば、それは排除の論理ではなく、広範な勢力確保を不可能にしてしまい、真摯な改革を達成できない既存の様々な排除の論理に反対し、各立場の合理的核心を生かして改革勢力をまとめあげる統合の論理だった。ただし、変革的中道主義とはこうこうだという定義を正面に掲げるよりは、何が変革的中道主義ではないかを適示することで、各自が自ら気付くようにする仏教『中論』の弁証方式を試してみた。ただ、『中論』の方式に真に忠実であろうとすれば、変革的中道主義者だと自負する人も、自らの考えをたえず省察しながら、自ら固定化したイデオロギーに陥らないように、自己否定の作業を続ける姿勢が必要であろう。

 ここでは、前述の文章を読まれていない方のために、あの1〜6番を簡略に紹介しながら、いくらか敷衍したいと思う。

1)分断体制に無関心な改革主義:大体こうした性向をもつ国民は、たとえ改革の内容や推進の意志は千差万別だとしても、全体の大多数だと思う。ここには、(与党の)セヌリ党支持者の相当数も含まれ、いわゆる進歩的な市民団体も多数がこの範疇に属する(もちろん、特定の改革テーゼを採択した活動家がここに集中するとして「後天性分断認識欠乏症候群」患者に追いやりはしない)。ともあれ、1番は社会の多数を占めるだけに自己省察に消極的なので、変革的中道主義の成功のためには彼らを最大限に説得する作業が肝要である。

2)戦争に依存する変革:韓半島の現実で、戦争は南北住民の共滅を意味するため、当然排除される路線である。だが、戦争を辞さずと叫ぶ人も大部分が戦争は起こらないと考えており、自ら韓国軍の作戦権を行使して戦争する気はまるでないことを勘案すれば、2番を実際に追求する人は極少数と見るべきだ。

3)北だけの変革を要求する路線:この部類も「北朝鮮革命」または「北朝鮮人民の救出」を積極的に推進する強硬勢力から、北朝鮮体制の変化を消極的に希望する人までスペクトラムは広い。後者は1番との境界線が曖昧な場合も多い。また、前者の場合も2番と同様に非現実的なので、南の改革を妨げる名分として作用しがちである39)。しかし、変革的中道主義は2番または3番の路線に反対するだけで、現在その追従者たちが路線の偏向性を自覚して「中道」を取りうるという期待を初めから閉ざすことはない。

4)南だけの独自的変革や革命に重きを置く路線:80年代急進運動の隆盛後、影響力は減り続けてきた路線だが、今も追従する政派や政党はなくはないし、特に知識人社会の机上変革主義者の間にかなり人気がある。ともあれ、「これは分断体制の存在を無視した非現実的な急進路線であり、時には守旧・保守勢力の反北主義に実質的に同調する結果になりもする」(同論文、22頁)。反面、世界体制と韓半島の南北双方を変革の対象とし、階級問題の重要性を喚起するという点から、分断体制の変革が核心懸案だと認識さえすれば、中道に合流する余地がある。

5)変革を「民族解放」と単純化する路線:これまた80〜90年代の運動圏ではやり、最近は影響力が大幅に減少したが、ただ日帝植民地期には民族解放が当然の時代的要求だったし、光復後も「民族問題」が厳然たる懸案中の一つだったという点で、その根はひときわ強固である。ただ分断体制下で、北の社会が歩んできた退行現象に目を閉ざし、さらには主体思想に追従する一部の勢力が40)進歩勢力の連合政党だった民主労働党と統合進歩党を掌握したが、進歩陣営の分裂へと突き進み、自主と統一という言説全体が弱体化する状況を招いた。しかし、「後天性分断認識欠乏症候群」と根気強く闘ってきた人すべてを一括りで罵倒してはならず、彼らが強調してきた自主性言説を、分断体制に対する円満な認識に基づいて変革的中道主義へ収斂する努力が進歩政党内外で実現されるように望む。

6)「グローバル的企画と局地的実践を媒介する分断体制の克服運動に対する認識」(同論文、23頁)が欠けた平和運動、生態主義などの場合:彼らも各様各色だが、全人類的な課題としての名分と現地実践に対する熱意をもったならば、例の「媒介作用」に対する認識の進展を通じ、変革的中道主義に合流または同調するのはいつでも可能だろう。

 こういう調子の論理展開を『中論』を借りてほのめかしたが、より俗な言い方をすれば、択一型試験で間違った答を消去して正答を「突き当てる」方式と酷似する。実際、現場で各種の極端主義と分派主義に苦しみながら、より良い社会をつくろうという熱情を放棄しない活動家であるほど、変革的中道主義の趣旨を最近わかりかけていると思う。本当に難しい問題は、正答を「突き当てる」ことよりも、正答に適う中道勢力をつくり出すことである。これこそ、各分野の現場の働き手と専門家が練磨し、積功すべき問題であり、ここでは選挙を左右する政党政治の現実に関して1〜2の断想を披歴するに留めたいと思う。

 韓国社会の大転換のためには、転換を妨げようとする勢力の力を一応部分的にでも削ぐべきだが、87年体制下で国民の最大の武器は6月抗争で勝ちとった選挙権に違いない。「1円1票」ではない「1人1票」が作動する、珍しい機会だからである41)。それなら既存の野党、特に第1野党である新政治民主連合をいかにすべきか。「まあまあなら」票を入れるんだが、現状では到底入れる気にならん、という人が絶対多数ではないか。

 これに対する答が私にあるはずはなく、変革的中道主義論がそうしたレベルの問いにいちいち答を出す言説でもない。ただ、いくつかの誤答を摘示する基準にはなり得る。例えば、野党の低い支持率を最近の若い世代の「保守化」のせいにする傾向があるが、もちろん社会風土の変化で若い世代が人一倍個人的「成功」に執着し、家庭教育でも社会的な連帯意識を軽視する面がある。その上、87年体制の末期局面が持続して冷笑主義が蔓延し、人々の心性が荒廃化したのは事実である。だが、少数の例外を除いて若者が既成の現実に対し、今のままで生きるに値すると肯定し、政府・与党の古いブザマさをお笑い(または彼らの表現で「笑わせる」)と思わない程、保守化していないと思う。むしろ、今とは異なる世の中に対する渇きが切実だと思われ、さらに彼らは上の世代に比べてはるかに識見が広く、溌剌たる気性をもつ。そうした若者に野党が「民主対反民主」の構図で迫り、自分側に立たないと保守化を云々すれば、ますます嫌われるのは当然である。逆に、変化に対する彼ら自身の欲求に合わせるのを「進歩」の尺度とし、それに適う政策議題を提示すれば、彼らはとても進歩的な反応を示し、むしろ年配世代の適当な牽制が必要になるかもしれない。

 「変革的中道主義ではないもの」に対する説明を援用すれば、野党が1番の路線に安住して「右クリック」を通じて「保守化」した若い有権者を捕えようとすると、与党との比較劣勢が際立つだけである。それなら革新化すると、4〜6番のうちどれかに「左クリック」するのも少数勢力にのみ魅力的になるだけだ。多数の国民もそうだろうが、特に若い世代は「変革的中道主義」という文字には無知だが、冷淡などころか、1〜6番すべてが合わないという点だけは直感しているのだ。

 こういう認識なしに、新政治民主連合に対して過度な革新化を注文するとか、期待するのは古い惰性でもある。第1野党が自己革新さえすれば、守旧・保守陣営に対抗しうる独自の陣営を実現できるという幻想をもちやすく、民主党(新政治民主連合)が即「民主」の総本山という固定観念に縛られた結果とも言える。第1野党の革新はもちろん必要だが、革新しても守旧・保守カルテルを制圧する力が生じるわけでもなく、短期間に変革的中道主義の政党に生まれ変われる立場でもない。カルテルの巨大な城砦に多少の亀裂を生じさせるのが急務であり、このために生み出すべき広範な連帯勢力の中で最も大きな現実政治の単位が民主党だという認識をもち、その役割を遂行しうるほどの自己整備と革新をやっていこうという謙虚な姿勢が必要である。本格的な変革的中道主義の政党(たち)の形成は、一応選挙勝利を達成した後のことであり42)、選挙勝利のためにも変革的中道主義に対する志向性をある程度共有すべきであり、このために自身より現実的な力が弱い政派や集団の声も変革的中道主義に対する認識がより貫徹するならば、傾聴する姿勢があってしかるべきだろう。

 最後に、変革的中道主義という南単位の実践路線が、仏教的「中道」――または儒教の「中庸」――のような一層高次元の概念と連結していることを想起させたいと思う(上掲論文、第2節「分断体制内の心の勉強、中道の勉強」を参照)。ここで、本稿が動員した様々な概念の間に一種の循環構造が成立する。つまり、近代世界体制の変革のための適応と克服の二重課題を韓半島次元で実現することが分断体制克服の作業であり、その韓国社会における実践路線が変革的中道主義であり、このためには集団的実践とともに各個人の心の勉強・中道の勉強が必須だが、中道自体は近代の二重課題よりひと際高次元の汎人類的な標準でもあり、他の様々な次元の作業を貫通しているのである。敢えてこの点を指摘する理由は、体系の完結性を期してではなく、今ここで私たちに与えられた複雑多岐にわたる積功・転換の課題を、時間帯と空間規模によって識別して結合する作業がむしろ理に適うことを強調したいからである。


筆者注:
29)「そして、それが政権交代や政治勢力主導の努力だけではできないのは明白である。何人かの人の無教養と非常識、そして不道徳から問題が生じたというより、国民多数の生命軽視の習性と正義感の欠如、そして歪んだ欲望に根ざしたものだからである。一日や二日で正せるものではなく、世の中と自らを同時に変えていく努力を各自の生活で着実に進める必要があるのだ」(『つくり』31〜32頁)。

30)李基政『教育を握る者が大権を握る』、人物と思想社、2011年。同じ著者の『教育大統領のための直言直説』(チャンビ、2012年)も一読に値する。

31)これは「後天性免疫欠乏症候群」(Acquired Immunity Deficiency Syndrome略称AIDS)に引っかけて私が作った造語である。英語で言えばAcquired Division Awareness Deficiency Syndrome略称ADADSになる。拙稿「2009年分断現実の一省察」『どこが中道で、どうして変革なのか』、271〜72頁参照。

32)注22)で言及した拙稿「D.H.ロレンスの民主主義論」を参照。

33)「労働者がカネと孤立に抑えられて自ら命を絶つ社会では誰も安全ではない。核事故による前例のない死が恐ろしくもあるが、日常的に徐々に死んでいくのも恐ろしい」(河昇佑「セウォル号惨事後の韓国での安全言説」『実践文学』2014年秋号、98頁)。

34)こうした資本主義自体の問題を「新自由主義」と規定するのは、問題の核心をそらすことになりやすい。もちろん、「資本主義の人間化のための努力が、結局は断片的かつ一時的なものにならざるを得ないのを、もしかして率直に告白しだしたのが新自由主義」という点で、それを「人間の仮面を脱いだ資本主義」と言うこともできる(拙稿「再び知恵の時代のために」、『韓半島式統一、現在進行形』104頁)。ともあれ、勉強の道筋は資本主義で、新自由主義の研究はその一環と位置づけねばならない。

35)特に国家の経済力や国民の教育水準に比し、韓国の女性の地位がとんでもなく劣悪という点は、世界経済フォーラムの2014年度世界男女格差指数(Global Gender Gap Index)で、――これが何か絶対的な尺度ではないが――大韓民国は142か国中117位に上がったという事実でも実感される(http://report.weforum.org/giobal-gender-gap-report-2014/ranking/)。ユネスコ教育統計資料で、韓国の人間開発指数は32位の反面、「性別権限尺度」は73位を記録した1997年の時点で、私はこうした奇形的な事態もまた分断体制と無関係ではないと主張したことがある(「分断体制の克服運動の日常化のために」『揺れる分断体制』、創作と批評社、1998年、45〜52頁)。

36)例えば、イマニュエル・ウォーラーステイン『ユートピスチックス:または21世紀の歴史的選択』白英瓊訳、創作と批評社、1999年、37〜42頁。「民族主義・人種主義・性差別主義の台頭」(Immanuel Wallerstein, Utopistics : Or, Historical Choices of the Twenty-first Century. The New Press, 1998年、20〜25頁)を参照。女性解放も二重課題論の視角で接近する必要性を提起した文章として、金英姫「フェミニズムと近代性」、李南周編『二重課題論』118〜37頁を参照。

37)この一句は、Ilya Prigogine and Isabelle Stengers, Order Out of Chaos: Man’s New Dialogue with Nature(Flamingo 1985:原著はLa nouvelle alliance Gallimard 1979)にでており、近代世界体制の変革を率いる新たな学問の定立を強調するウォーラーステインがよく引用する表現である(例えば、イマニュエル・ウォーラーステイン『知識の不確実性:新たな知識パラダイムを求めて』柳熙錫訳、チャンビ、2007年、154頁:Immanuel Wallerstein,The Uncertainties of Knowledge, Temple University Press,2004年、125頁)。

38)「変革的中道主義」や「中道的変革主義」を特別な考えもなく使い始めたが、これは用語のなじみにくさのせいもあったが、変革的中道主義がそれなりの厳密性をもった一つの概念であることを見逃して作ったのである。南の現実における実践路線として、変革的中道主義は変革主義ではなく改革主義だが、南の社会改革が分断体制の克服運動という中期的運動と連係してこそ実効を上げうるという立場なのである。

39)「実現の可能性がほとんどない、こうした構想[2番または3番]が一定の勢力を維持するのは、そういう方式で南北対立を煽ることが南の内部における既得権を維持する上で助けになるからである。つまり、北の変革は名分だけで、実質的には分断体制の変革とそれに必要な南の内部改革を妨げることに寄与しているのだ」(「2013年体制と変革的中道主義」29〜30頁)。

40)彼らに「従北」の嫌疑が被せるのもそのためだが、「従北」という曖昧な表現より、「主体思想派」という正確な概念を使用するのが正しいという主張は説得力がある(李承煥「李石基事件と『進歩の再構成』論議にあたり」『創作と批評』2013年秋号、335頁)。

41)細橋フォーラムの討論で朴聖a代表は、守旧・保守カルテルの「最も弱い環」が選挙であることを強調し、現在野党の人気はあまりにもないが、国民は「そこそこなら」野党に票を入れる準備はできていると主張した。

42)2013年体制が成立しても、変革的中道主義勢力をすべて網羅した単一巨大政党ではなく、基本的な志向を共有する多数の政党の存在が望ましいという点を表明したことがある(同書、30〜31頁)。