韓国の知性、新しい時代を語る

韓国の知性、新しい時代を語る第13回


[掲載にあたって]
白楽晴氏の重厚な論考「大いなる積功、大転換のために ―2013年体制論以後」が届きました。
韓国の現在の政治、社会のみならず、言論・思想状況、南北関係にわたる、深い省察と思索にもとづく、示唆に富む論考です。
長編にわたる論考のため、前・後編にわけて掲載します。
今回も、翻訳家で仙台コリア文庫の青柳純一氏のお力添えと韓国「創作と批評」編集部のご理解によって掲載することができました。
冒頭に記して感謝申し上げます。
なお、掲題にある
「積功」については訳者、青柳氏によって以下の「訳注」がつけられています。
「積功」とは「功徳の積み重ね」、ここでの「功徳」は仏教的な意味もこめた「現在または未来を資益する善い作業」(諸橋轍次・
『大漢和辞典』巻二)で、「道徳・恩徳」より「社会的貢献・成果」に近いと言える。なお、本稿で頻出する『2013年体制づくり』
『どこが中道で、どうして変革か』の主要論文は、『韓国民主化2.0』(青柳純一訳・岩波書店、2012年)を参照のこと。
(訳文を一部修正)。
筆者注は末尾に掲載しています。


大いなる積功、大転換のために ―2013年体制論以後 (前編)
                                      白楽晴

1.積功と転換:セウォル号以後

 「2013年体制づくり」の企画が失敗に終わった後、私は時局に関する発言をできるだけ自制してきた1)。省察すべきことがあまりに多く、国民の前に立つ面目もなかったし、「2013年体制」の代わりに何を提示するかも漠然としていたからである。だが、去る4月16日のセウォル号惨事を経て、私も黙っているべきではないと思われた。ほぼすべての国民が「セウォル号以前」のようには生きられないという思いを共有する状況で、以前のように考えて発言するのも問題だが、以前のように沈黙するのも難しくなったのだ。

 「2013年体制づくり」に代わるスローガンを提示すべきだという強迫観念自体が古い思考という気もした。必要なスローガンは時が来れば生れるものであり、必ずしも私がそれを提示しなければならない理由もない。まずはセウォル号事件に触発された社会と私自身に対する省察を遂行し、これに基づいて「セウォル号以後」への転換を達成するように努力したいと思う

 実際、事件後に私たちは前のようには暮らさないという共感と決意だけでは現実が変わらないという事実を痛感している。言葉ではみんな変わろうと言いながら、従来のように(既得権を)享有しながらの生を全く変える意志のない者どもが社会の要所を占めており、彼らを批判して審判しようという野党政治家や知識人も相変わらず「セウォル号以前のように」考え、行動しがちである。そうした双方に失望した国民も対策なしに憤怒し、簡単に諦めて、時にはセウォル号以前の「日常」に戻ろうという主張に引きつけられる。

 こうした状況で2012年がそうだったように、私たちは今も韓国社会には時代が要求する大転換を達成させる積功が足りないと痛感する。もちろん、それなりの功徳と功力が積まれているので大韓民国がこれほど民主化され、自力を備えた社会になったとも言えるが、さらなる大転換を達成すべき局面を迎えて一層大いなる積功が切実に求められる。いや、積功と転換は決して2つではない。積功するだけ転換が達成されるし、転換していく過程自体が積功でもあるのだ。

 もしかしたらセウォル号事件の最大の教訓は、時宜に適った転換ができない場合、国が直面する混乱や難関はどういうものかを克明に示したことかもしれない。セウォル号特別法の制定をめぐって長期間続いた膠着状態が、その端的な例である。徹底した真相究明は省察の基本であり、新たな出発の前提なのに、その第一歩を前に政府・与党は破廉恥な引き延ばしに明け暮れ、野党は「セウォル号以後」の変化を読めないまま、「以前のやり方通り」に駆け引きする水準を大きく脱却できず、国民の信頼を失って混乱を増幅させた。そうした中、社会は「大統合」から一層遠ざかり、公論の質は以前になく低劣になった。植民地と独裁時代を通じて権力に服従し、むしろ被害者を蔑視する習性が多くの人に内面化された面は否認できないが、最近ほどそれが実感される時も珍しい。

 とはいえ、「国民が問題だ」「私たち全員の責任だ」と簡単に言うこと自体、真相究明と対策づくりという任務を怠るやり方と言える。みんなが罪人である面がなくはないが、為政者としての是非を明らかにする責任、少なくとも真実を明らかにしようする市民の努力を妨げるべきではない指導者と政界の特別な責任を不問にしてはならない。強大な権限をもった者どもが、彼らなりに積み上げてきた功力と術策をもって誹謗するなら、いくら国民が優れていてもどうにもならない!

 同時に次の瞬間、「本当に優れた国民ならば、当初からこういう政治が可能だったろうか」という問いが浮かぶのも避けられない。これは、「だから次の選挙では指導者をうまく選ばなければ」という決意だけで解決される問題でもない。政治の重要性を認識することは、選挙で選んだ政治家の責任をそれなりに問い、責任を追及していく広い意味の政治活動に各自が日常的に精進する、はるかに難しい積功を必要とする2)。

 次の選挙を視野に入れて、今ここでの積功をどのようにすべきか、いくつかの主題を中心に検討しようというのが本稿の目的である。だが、具体的なアジェンダを詳しく論じようというのではなく、課題に接近する姿勢を考えたいと思う。『つくり』でも強調したように(82頁)、民主・平和・福祉のような主要アジェンダがいかに有機的に結びついた一大課題であるかを認識することが重要である。同時に、空間としては韓国だけでなく韓半島と東アジア、さらに全世界を考えながら、時間上は短期・中期・長期次元の課題を識別し、適切に配合する必要がある。この場合、「識別」に劣らず「配合」が重要である。短・中・長期の課題を分類して短期的課題から1つずつ遂行していくのではなく、その完成の時点がそれぞれ違うことを認識し、どういう方式で同時に推進したら最大の相乗効果が得られるのかを探し出す、まさに積功を要する作業なのである。

 ともあれ、わが社会の混乱は極に達したが、どこまでも混乱、膠着であり、「セウォル号以前」への復帰ではないという点が希望である3)。膠着と混乱自体はもちろん歓迎すべきことではないが、諦めを拒否して「日常」への安易な復帰を拒絶する動きが、あちこちで展開されている。「どれほどたやすいか、わからない。希望がないと語ることは。どうせ、と語ることは。元来世の中はこういうものだから、もはや期待もしないと語ることは。私はすでにこの世界に向けた信頼を失ったと語ることは」4)。ともあれ、このように吐露する小説家・黄貞殷自身を含め、数多くの市民が積功と転換の作業に立ち上がっている。
 私もその隊列に参加しようと思うが、私の場合、2013年体制論に対する自己省察から出発するのが道理であろう。

2.2013年体制論に対する省察

・2013年体制づくりの趣旨
 2013年2月は、新大統領が新政権を発足させる時だった。この時期を前にして、単なる政府交代または政権交代に満足せずに、6月抗争が起こった1987年に匹敵する大転換を求めたのは多くの国民が共感したことだった。野党候補は選挙運動期間に「2013年体制」を直接論じ、与党候補も「単なる政権交代を超える時代交代」を約束して当選した。もちろん、当選者自身の体質から見て、その支持勢力の性格から見て、「時代交代」の約束を履行する可能性は当初から乏しかった5)。だが、意図的な欺瞞策であれ、自己催眠であれ、国民の要望があっての約束だったし、今の私たちは時代交代が達成できなければ、国民が不幸にならざるを得ないことを体験学習中である。

 2013年体制論は87年体制を克服しようとする企画だが、どこまでも87年体制の成果を踏みしめて進もうというものだった6)。従って、抗争を通じて韓国社会が確保した選挙空間を活用するのは当然だったし、6月抗争時のように街頭闘争を主要な手段とすることはなかった。「希望2013」というスローガンに選挙を意識した「勝利2012」という標語がついていたのもそのためであり、同時に「希望2013」に向けた徹底した準備がなければ、「勝利2012」自体期待しがたい点を強調した。さらに、4月総選挙の決定的な重要性に注目しながら、私は野党勢力全体の総選挙勝利が大統領選挙に勝利する前提条件だと明言した(『つくり』第4章第4節、85〜87頁)。

 不幸にも、その診断は的中した。総選挙で負けた野党勢力が大統領選挙でも負けたのだ。敗因の具体的な分析は専門家に任せるが、一言で「希望2013」に向けた積功が不足していたと言わざるを得ない。例えば2013年体制論は、87年体制が1961年以来の独裁政権を終息させた後もなお独裁体制と共有した53年体制(停戦協定体制かつ分断体制)という土台を変えてこそ87年体制が克服できる、という主張を重要視していたが(『つくり』79〜80頁、162〜64頁)、「2013年体制」をスローガンとして採用した人でも、この点は見落とすのが常だった。だが、この主張は分断時代の歴史に対する勉強とともに、韓国社会の現実診断から南を基本的な分析単位とする習性から脱すべきことを要求するものだった。また、それは分断体制さえ最終的な分析単位ではなく、世界体制中心に思考する学問上の転換を要求したものなので、短期間に広く共有されにくかったのは事実である。

・『つくり』とその後続作業の問題点
 2013年体制論があまりに抜本的な省察を要求して共有しにくかったとだけ言えば、他人のせいにする破目に陥るだろう。実際は、『つくり』だけでなく、その後の自己修正の試みさえも論者自ら多くの問題点を露呈させ、企画を失敗させる助けをした点は否定できない。

 選挙の勝利に執着したら選挙にも勝てないというのは、『つくり』が重ねて強調した点だった。だがふり返れば、私自身にもそういう執着があった。例えば、2013年体制論の核心概念に該当する「変革的中道主義」は、『つくり』ではほぼ消失してしまったが(81頁で一度だけ言及)、これは選挙の年である2012年に本を出版するのでわざわざ選択した方式であった。「『変革』と『中道』という一寸見ると衝突する概念の結合」7)が韓半島特有の現実に対する学び心を触発する公案ではあっても、選挙スローガンとしては無用の長物だったからである。

 また、こうした執着の別の面でもあるが、時代的転換に抵抗する既得権勢力の力を過小評価する愚も犯した。端的な例として、大勢の人のように、私もソウル市長補欠選挙で朴元淳候補が当選したことに鼓舞されるあまり、ハンナラ党(後のセヌリ党)の朴槿恵非常対策委員会が発揮する威力を正確に把握できなかった(『つくり』63〜64頁参照)。政治の門外漢として間違うこともあるではないか、と慰めてくれる人もいる。だが、門外漢なので口をつぐんで「損はしない」権利はあるが、公開的な発言が間違った場合に責任が伴う点は誰でも同じであり、より重要な点は私も含めた多くの人が韓国社会の強大な守旧・保守同盟に対する認識が十分ではなかった点である。

 ともあれ、「変革的中道主義」を選挙スローガンとして採択しなくとも、できるだけ多くの人がこの趣旨を把握して闘いに臨むことが重要だった。変革的中道主義については後半でもっと論じるが、そこでの「変革」つまり分断体制の克服と、そのための「中道」つまり幅広い改革勢力の形成こそ、「希望2013」の要諦だったからである。

 これはまた、「勝利2012」の前提条件としてあげた連合政治の問題を正しく解いていく指針でもありえた。実際、2012年総選挙における野党勢力の選挙連帯は、後に多くの批判を浴びた。特に、選挙後に暴露された統合進歩党の候補者選びをめぐる内紛と党分裂の事態を通じ、「主体思想派と手を組んだ何でも連帯」が俎上にのった。しかし、総選挙当時の統合進歩党は特定政派一辺倒の党ではなかったので、野党勢力の連帯と候補者一本化は2012年の総選挙でも、2010年地方選挙と同じく、国民多数の至上命令に違いなかった。それにしても、変革的中道主義のような連合政治の哲学が確立できなかったため、その哲学を共有できるすべての政党・政派の統合または連合と、それに達しないレベルの戦術的連帯を区別する明確な原則がなかったし、もっと堂々たる効率的な連合政治を実行できなかったのである。

 とにかく、私は総選挙の敗北を経た後に、変革的中道主義の論議を再開した。「2013年体制と変革的中道主義」(『創作と批評』2012年秋号)という文章だが、それは総選挙に負けたら大統領選挙も負けるだろう、という自らの予測を何とか覆そうという足掻きでもあった。結果はみなさんご存知の通りだが、文章自体の問題点も反芻せざるをえない。

 一つは、時宜性の問題である。2012年初めの時点で、変革的中道主義の論議は選挙に適さないという判断に一理あったなら、大統領選挙の目前ではあまりにも遅かった。もう一つは、最後の節「『(安哲秀の)考え』に対するいくつかの考え――結びに代えて」の件である。もちろん、安哲秀氏がまだ出馬を宣言していない時点で、また出馬後にどういう歩みを見せるかわからない状況で、確実な展望や代案を提出するのは不可能だった。とはいえ、「仮に『(安哲秀の)考え』が非常に立派な文書ファイルだとしても、どういう性能の実行ファイルが含まれているのか、文書だけでは判断できず、実行ファイルを作動させてみるべきだ」(33頁)という指摘は、「評論家的」発言としては無難だが、実践レベルでは不十分なものだった。しかし、その時点で安哲秀氏の能力に手厳しい評価を下して、彼の出馬自体に反対した一角の反応がより適切だったかは疑問である。これまた、「評論家的」発言としての鋭さは誇りうるかもしれないが、安哲秀の出馬を通じて初めて「朴槿恵大勢論」が一挙に崩れ、終盤に野党単一候補の得票率を48%に押し上げる道が開けた点は無視できないからである。

3.2014年の大混乱に至るまで

・「これが国なのか」
 セウォル号惨事を経験し、あちこちから聞こえてきたのが「これが国なのか」という問いである。セウォル号特別法の制定をめぐる葛藤から、狭い意味の「国」、つまり大統領と政府がみせた言行や態度と、セウォル号以後も相次いで起きた事故と当局の変化なき無能・無責任により、この問いはさらに切実になった。

 これを契機に、国家とは一体何であり、国家主義の弊害が何なのかという、根本的な省察を行うことも必要な積功の一部である。だが、国家あるいは国家主義が諸悪の根源という調子の単純論理へと突き進めば、真実味のある積功ではなく、観念の遊戯に陥る危険性が高い。万事を新自由主義のせいにする「新自由主義節」も同じである。国家主義、新自由主義が具体的にいかなる作用をしており、現時点でそういうものが完全な統一国家の不在とか、自由主義よりもっと古い「封建的」要素8)などといかに結合し、作用しているのかを練磨する必要がある。

 「大韓民国、即セウォル号」という図式も安易な単純化である。もちろん、大韓民国がセウォル号にどんなに似ているかに関する「凄絶な」認識は肝要である。例えば、小説家朴a奎が私たちの立場を「下りられない船」に乗った共同運命と規定し、セウォル号との類似点を指摘したのは何度も噛みしめるに値する。「日本が36年間運行していた船だったし、私たちが自力で購入した船ではなかった。……戦勝国だった米国は軍政を通じて船のバラスト水を調節し、船の管理を引き受けたのは以前から操舵室と機関室で働いてきた船員らだった。彼らは自発的にバラスト・バルブの片方をあえて開けた。バラスト水を減らせば減らすほど、船に載せられる貨物の量は増加した。積み荷、積み荷、積み荷……私たちはそれを奇跡だと考えた」。そして、「傾いた船で生涯暮してきた人間たちには//この傾きは//安定したものだった。きちんと縛られていないコンテナのように、積み上げられた既得権、既得権、既得権の角度もまた、この傾きと角を同じくしていた。……当然、問題は多かったが、根本的な修理は一度もしなかった。ドバーン、ドバーン、ドバーン……そして、ある日//この船にそっくりな一隻の船が沈没した」9)。

 作家のこうした洞察に共感すればするほど、私たちは二隻の船の相似と相違をより精密に分析する必要があり、この国が元来どういう国で、どういう歴史を展開してきたのか、それなりに少しは良くなったのか、いやこれより良かったのに、ある時期から悪くなってこの破目になったのかなど検討すべきである。そうした認識のために、一応87年以後に限ってこれまでの大転換の試みとしてどういうものがあり、どういう軌跡を描いたのかを検討してみよう。

・1987年以後の転換の試み
 朴a奎の言葉通り、大韓民国という船が「根本的な修理は一度もしなかった」とはいえ、それなりの大修理をして転換を実現したのは1987年6月抗争を通じてだった。先立つ(1960年)4・19革命が未完で終わり、(1980年)5・18抗争が流血鎮圧されたのに比べ、この時の転換は「87年体制」と呼ばれるほどの持続性をもって定着した。

 とにかく大転換の最も確かな証拠は、大統領直選制が復活した後の最初の選挙で第5共和国の核心人物だった盧泰愚候補が当選し、次の選挙では三党合党を通じて与党系に合流した金泳三候補が選ばれたことも、87年体制が出発進行させた事実なのである。これら大統領の個人的体質やその支持勢力の性向にもかかわらず、両政権ともに87年が達成した大転換の波に乗り、時代が要求する変化を相当部分遂行したのだ。この厳然たる事実を無視して金大中と盧武鉉の「民主政府」だけが民主化を遂行したように語るのは、悪い意味での「陣営の論理」である。さらには、盧泰愚・金泳三で代表される「保守の時代」と、李明博以後に民主党政権10年を否定する線を超えて87年以前に戻そうと努める「反動(=逆行)の時代」を識別する基準を自ら放棄する誤りでもある。

 1998年金大中政権の誕生に至り、87年の民心が要求した大転換により一歩近づいたのは事実である。もちろん、この時期を韓国での新自由主義の出発期とみる見解もある。当時としては、IMF(国際通貨基金)管理を脱することが急務だったし、IMFが要求する各種の措置を受け入れたからである。しかしこれは、金大中政権が受容したIMF側の要求には、官治金融の改革のように、実際に必要な旧自由主義的な改革も含まれていたことを看過する論理である。実は、それでも韓国社会の「封建的」な利権経済を清算するには不十分だったために、新自由主義の横暴がむしろ加重した面もある。また、世界的に新自由主義の主な打撃目標である社会福祉が、韓国でそれなりに拡大したのはこの時期だった。もちろん、最小限の福祉は新自由主義の円滑な作動のためにも必要なものだが、金大中政権の福祉拡大は新自由主義に適応した「最小限」というより、朴正熙時代に始まったいくつかの初歩的な措置以外には、全く何もないような状態で出発した結果とみるのが適切だと思う。

 「進歩的」な社会科学者の論議でよく見落とされるもう一つは、金大中政権が経済危機の克服を南北関係の新たな突破口と連結させたという事実である。これは、李明博政権が2008年経済危機に対応した方式とあまりに対照的だが、金大中政権は東独滅亡後の金泳三政権下で膨らんだ吸収統一の虚夢をしぼませ、2000年南北首脳会談と6・15共同宣言を通じて南北の和解と協力の道を切り開き、公安統治の名分と新自由主義の圧力を減らす方式を選んだのである10)。これにより、87年体制の成立とともに揺らいでいた分断体制は、次の段階への転換を見通せる地点まで達した。

 とはいえ、87年体制を超える大転換へと進めなかったのもまた確かである。元来、分断体制は南北関係のみならず、南北それぞれの内部条件、そして韓半島をめぐる国際関係がかみ合う複雑な構造であるために、これらすべての面で進展が(文字通り、同時である必要はないが)総合的に達成できないと克服段階へ入ることはできない。しかし6・15以後、米国のブッシュ政権の登場によって南北関係に足かせがはめられ、国内でもDJP(金大中―金鍾泌)連合の崩壊など守旧勢力の反発は手強かった。それでも、南北関係は紆余曲折を経ながらも前進し続け、これによって守旧・保守同盟の凝集力が弱体化した面もうかがえた。そうした中、国内ではいわゆる四大部門(企業・金融・労働・公共)の改革が推進されたが、執権勢力がこうした改革をもう少し念入りに仕上げる功力を備えていたならば、87年体制の克服に一層近づいただろう。

 このように順調とは言えない改革の成果と旧時代政治の悪習に染まった執権勢力の腐敗事件などで、民主化勢力の再執権はほぼ不可能なように思われた。だが、87年体制の活力をそれなりに保存して拡大した実績があった上に、時代転換に対する国民の熱望が激しかったので、「参与政府」の誕生が可能であった(もちろん盧武鉉候補の大胆な個人技も一要因だった)。そして、いわゆる三金(金大中・金泳三・金鍾泌)時代を清算し、反則と特権のない社会をつくるという新政権のアジェンダの大部分は金大中政権に比べて抜本的な性格だった。ただ、積功という面ではむしろはるかに不足していたのが露呈し、多くの業績にもかかわらず、2006年地方統一選挙の惨敗が象徴するように、期待された大転換に失敗してしまった。

 87年体制の末期局面はこの時に始まった。もちろん、選挙惨敗の根は大統領自身による与党分裂などですでに植えられ、2005年南北関係の画期的な進展と9・19共同声明を成就させた外交成果から生じたエネルギーは、「大連政」という突拍子もない提議により雲散霧消した。その結果、2007年大統領選挙では、1997年金融危機以来、貧困から抜け出したことがない庶民層と、この間政権以外は失ったものがない既得権勢力との一種の「国民連帯」が形成され、李明博候補が圧勝した。これによって87年体制の末期的混乱は加重されたが、「李明博政権が批判されるべき点は、こうした混乱を初めて起こしたという点ではなく、2008年を『先進化元年』にしようという李明博氏の約束が当初から実現性もなく、時代精神にも合わない発想だったので、実際に87年体制の末期局面を長引かせ、その混乱ぶりを『災い』レベルに拡大させたという点」(『つくり』51頁)である。

 国民はそうした両面を直感していたので、一方で李明博政権後の真の転換を渇望しながらも、他方では積功が足りない野党勢力を信任するよりも、もっと力があると思われ、実際に選挙運動の能力が卓越した与党候補の「時代交代」の約束を好んで「安全な選択」をした。結局、これはもう一度「87年体制の末期局面を長引かせ、その混乱ぶりを『災い』レベルに拡大」させる誤判であり、「目がくらんだ者どもの国家」を持続させた「目がくらんだ」選択だったことが時の流れとともに明白になっていくようだ。

・「欠損国家」の略史
 ここで、87年以前に目を向けよう。これは大韓民国が元来どういう国であり、今はどういう国かという問いを反芻する方法でもある。

 分断体制論によれば、大韓民国は(朝鮮民主主義人民共和国もそうだが)分断されない国々とは異なり、分断体制という中間項の媒介を経てこそ、近代世界の「国家間体制」(interstate system)に参加する変則的な単位である。ここで、欠損国家という用語を使うと、大韓民国を否定する非愛国(ないしは従北)行為だと憤慨する人々がいるが、それは1948年大韓民国の成立当時、ある程度普遍化した認識だった11)。いや、今も大韓民国は憲法第3条の領土条項が守られていない(従って、国際的に公認された国境線に重大な空白がある)欠損状態を経験している(『つくり』、第7章「韓国の民主主義と韓半島の分断体制」144〜45頁)。

 欠損国家と不良国家は別個の概念である。欠損家庭が必ずしも不良家庭ではないのと同じ理致である。ただ私が見るに、4・19革命以前の大韓民国は欠損国家であると同時に不良国家だった。単に李承晩大統領が独裁をしていたからではなく、その政権が独裁政権としても無能で支離滅裂な政権だったし、この時期の大韓民国自体が国家歳入の主な部分を米国の援助に依存し、国家の運営も米国の顧問官の現場介入に左右されるのが常だったからである。

 その点で、朴正熙時代に対する私の評価は少し異なる12)。(1961年)5・16は民主憲政を破壊した軍事政変であるのは明らかで、朴正熙は1972年の二度目のクーデターを通じて李承晩よりはるかに残酷な独裁へと突き進んだが、無能で腐敗した自由党政権に対する4・19の断罪を、5・16が継承した面もなくはなかった。実際、4・19以前に朴正熙少将自らが反李承晩クーデターを計画したのも知られている。ともあれ、彼は軍隊復帰の約束を覆しはしたが、1963年に憲政が復元された状態で直接選挙を経て大統領になったし、選挙期間に「アカ攻撃」をしかけたのはむしろ尹?善候補だった。もちろん、第3共和国下でも人権弾圧と容共操作など不良政治が横行したが、維新宣布後とは異なるレベルだったし、経済発展と統治体系の整備などで大韓民国は不良国家というお札をある程度外したのは、この時期ではなかったかと思う。朴正熙時代と朴正熙なりのこうした業績を流し去り、むしろ朴正熙と李承晩を一括りして賛美する傾向は、朴正熙時代のイデオロギーではなかったし、李明博と朴槿恵の時代、長く見てもいわゆるニューライトが台頭した時期に特徴的な現象である。

 大韓民国の画期的な改良は、もちろん6月抗争を通じて実現した。その結果、87年体制というひと際良くなった社会が成立した。だがこの時も、欠損国家の欠損状態に対する「根本的な修理」は行われなかった。このように改良はされたが、相変わらず危うい体制が適時に、新たな転換を達成できずに、李明博・朴槿恵政権下で逆走行を重ねながら、不良国家の姿が際立ちはじめたのが今日の現実である。セウォル号惨事の後、「一体これが国なのか」という問いが広まったのは、国民がこれを実感していることを物語る。この問いへの私の答えを要約すれば3つになるだろう。
 第一、元来別に国らしくもなかった国を国民が血と汗を流してひと際生きるにたる国に作り上げた。
 第二、それが近年再び崩れる面が多くなった。
 第三、それでもさらに崩れる余地がまだ十分にある国だ。

 従って、もはや底を打ったと安堵することもなく、救済不能と絶望することもないのである。

4.「三大危機」再論

 李明博政権1年を経て、金大中元大統領は「民主主義の危機、中産層と庶民経済の危機、南北関係の危機」という三大危機を警告した。これを指し、「保守政権」に対する「進歩」側の党派的批判という視角もあろうが、李明博政権が盧泰愚、金泳三政権のような「保守政権」というより、87年体制の大きな流れに逆らう「反動の時代」へ入っていることを看破したと見るのが正しいようだ。不幸にも、彼の警告は的中した。その上、いわゆる「四大河川再生事業」による前代未聞の国土破壊という第四の危機も重なった。朴槿恵政権になってこうした危機がどれほど改善したか、あるいはさらに加重しているかを冷静に把握することこそ、時代が要求する積功の一部だと思われる。そうした現実診断とともに、私たちの対応策として短期・中期・長期課題を配合することに焦点を当てて考察してみたいと思う。

・民主主義の危機と「陣営論理」
 韓国民主主義の危機は朴槿恵政権2年目になってもっと深化した、というのが多くの人の診断である。公正な法執行と国民の基本権尊重などの民主主義の初歩的な原則すら日ごとに破壊されている。朴槿恵大統領と李明博大統領の中、どちらがより多く過ちを犯しているかを検討しようというのではない。朴槿恵政権は李明博政権5年を通じて自由と民主主義の破壊が進んだ結果を踏まえて出発したので、前政権より一層容易に反民主的な言行や態度が横行するようになったのだ。

 ここで、そうした言行や態度を一々列挙する必要はないと思う。それよりも、87年体制が達成した不十分な民主主義でさえあちこちで反転する現実にもかかわらず、どうして「民主対反民主」という構図が韓国政治で作動できないのかを考察してみる。この構図が力を失ってから長い年月が経ち、むしろ野党には「毒薬」になっているという診断が出ている。「民主党が数十年間信奉している『民主対反民主』という信念なり、スローガンは民主党に『毒薬』になっている。こういう二分法の構図で民主側に属した人も、民主党を支持すれば『民主』、反対側を支持すれば『反民主』という図式は時代錯誤という程度を超え、もう“ウンザリ”していると思う」13)。

 康俊晩教授自身も、この対立構図を全面否定するわけではない。この構図が通じる場合でさえ、民主党支持が即「民主」という発想は清算すべきであり、この自己満足的な発想から全く「不作法な軽挙妄動」が生じ、選挙での相次ぐ敗北を自分で招いたというのだ。これは、野党の執権戦略の致命的な弱点を指摘した言葉である。ただ、礼節や「作法」の問題で接近して解決策が生じるかは疑問である。康教授も指摘するように、不作法な軽挙妄動の相当部分は誤った構図から派生するが、それがどのように、どれほど誤った構図であり、どういう対案が可能なのか、より精密に検討する必要がある。

 「民主対反民主」という構図がむしろ選挙の敗北をもたらすなら、少なくとも短期的には誤って設定された構図であるのは明らかである。しかしこれは、与党人士がよく主張するように、私たちはもう民主化を達成したので今後はひたすら「民生」に取りくむことが残ったためではなく、「民主対反民主」の内容が「独裁打倒対独裁維持」から「民主化の新たな進展対民主主義の退行」へ代わったためである。従って、「民主」に該当する勢力も、過去の反独裁運動家や反独裁闘争の伝統の継承者を自任する野党と同一視できないし、「民主」の方法もはるかに多様かつ柔軟であり、「作法」が必要になった。「民主」のそうした再定義と再編(および拡張)がないと、「政争対民生」という欺瞞的な枠組でいつも敗退するはずだ。

 「民主対反民主」という構図への反応が良くないもう一つの理由は、国民が「黒白二分法」または「陣営の論理」に食傷しているためである。まさにこの理由で、反民主的な言行や態度を糾弾する政治家より、何の積功も転換の意志もないのに「社会大統合」、「100%国民統合」などを豪語する政治家が優勢になりやすい。2007年の李明博候補がそうだったし、2012年の朴槿恵候補がそうだった。今後も民主勢力が「反民主」の問題を別の形で提起する方案を見つけない限り、そういうウソの公約で当選して社会分裂を深化させる現象が持続するだろう。こういう場合こそ、短期・中期・長期の課題を正確に識別し、賢く配合することが切実な事例である。

 まず、「100%国民統合」は虚像であるだけでなく、危険な発想である。極めて長期的なビジョンとしては、(大韓民国や韓民族ではない)人類社会の調和ある生、そういう意味で100%ではないが、かなり高いレベルの統合を夢見ることができる。これは色々な条件を勘案した総合的かつ遠大な設計を要するが、政治家も自分なりの遠大な夢をもち、韓国社会の一定の社会統合を提唱することはできる。だが現存の87年体制、特にその末期局面で、それを当面実行する道はないという事実を直視すべきである。韓国社会の統合は、新たな大転換を伴う中期的課題として設定することだけが正直かつ現実的な道である。『つくり』で、社会統合を私たち社会の切実な懸案として提起しながらも、本格的統合はすぐに実現すべき課題というより、「2013年体制の宿題」として残らざるをえないと述べたのもそういう意味である(73〜75頁)。しかし、そう言うと社会統合に反対して権力奪取に汲々とする「ケンカ好き」とみなされる困難に直面する。いわば、一種の陣営対決で勝ってこそ統合の宿題を解くことができるが、その闘いは「陣営の論理」どっぷりであってはならず、推進者が「選挙で闘って勝つことだけ考える集団ではなく、統合をうまく達成できる勢力であることをあらかじめ示せなければならないのだ」14)。

 実際、わが社会の「陣営」問題は本当にきちんと検討すべき問題である。今日、陣営の論理が批判されるべき理由は、わが社会に陣営というものがないからだと信じるなら、それこそひどい錯覚である。欠損国家かつ分断体制の一環である韓国社会は「正常な」社会に見られる「保守対進歩」の対立構図が成立する以前の状態にあり、分断体制の守旧的な既得権勢力が相当数の本当の保守主義者まで包摂し、頑強な城砦を構築している特異な現実である。その政治的な集結体であるセヌリ党は、現職大統領と国会議員の過半数など選出職はもちろん、官僚と軍部、検察と裁判所などの非選出の権力機構と経済界、言論界、宗教界、法曹界、学界など社会の有利な高地を大部分占有している。ここで看過すべきではない点は、彼らが単に国内勢力だけではないという事実である。世界資本と直接連携する大企業は言うまでもなく、さらに学界のように客観的な真理の探究を標榜する領域でも、米国の主流学界と彼らが伝播する各種イデオロギーの影響力は圧倒的である。これは研究費や出世の機会にしがみつく学者の良心を売る(決して珍しくない)言行や態度とも異なる問題として、こうした現実への分析と対応も時代が要求する積功・転換の重要部分である。

 ここで、「極右勢力」の問題をしばらく考えてみる必要がある。守旧・保守同盟は、守旧勢力が真性保守主義者まで包摂した巨大なカルテルだという場合、「守旧」は理念上の「極右」と区別されねばならない。大多数の守旧勢力は理念を超越して自らの既得権を守るのに没頭する人であり、極右理念の信奉者は少数だと思わねばならないのだ。ただ、分断が固着化する過程で深刻な理念対立が極右分子に対する既得権層の依存度を高め、87年体制の末期局面に至って守旧勢力が「アカ攻撃」以外は既得権守護の名分が希薄化する状況で、極右にとって「商売になる」時期が再来したのだ。こうした理念的極右以外に、生計型または出世志向型の極右まで猛威を振るうようになった15)。

 では、これに対応する陣営をどこに求めるのか。何よりも肝要なのは、守旧・極右・保守同盟という巨大陣営に対し、1対1の「陣営対立」を構成するほどの陣営がないという点を認識することだ。その強大な城砦に亀裂でも生じるかと、国民が準備した陣地がいくつか点在する程度である。そういう状況で、陣地さえない大衆が広場やSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に集まり、時おり喚声を上げ、時には個人や社会団体を通じて声を上げている。それでも、野党がまるで自分らも一陣営をもつように組分けし始めると国民は眉をひそめがちで、「陣営の論理を脱して国民統合を達成しよう」という既得権陣営のもっともらしいスローガンに切り崩されるはずだ。もっと悪く見ると。それでも陣地を保有する立場に安住して闘いを避けるとか、いい加減に闘って国民への背信行為をする。「民主党も既得権化した」という言葉が広がるのもそのためであり、新政治民主連合の立場でこうした批判を相殺しうる最大の武器が「民主対反民主」の構図なのだ。ただ野党の「既得権化」をさし、彼らが城砦内で守旧勢力と共同支配していると見るのもまた錯覚である。どこまでも城砦周辺の副次的な既得権集団であり、そうした集団たる些細な既得権をとても大事にする困った人があまりにも多いのだ。

 第1野党ならずとも闘いをきちんとできず――時おり争ってはならない時と場所を選んで争いを仕掛け――むしろ守旧勢力を助ける事例が多い。大企業や公企業労組が零細自営業者や非正規職の生活に無関心なまま、自らの既得権を守る争い(と談合)に熱中するとか、過激な単純論理で武装した一部の「進歩政党」または「進歩論客」が国民から嫌われ、守旧・保守陣営の支配をむしろ手助けするケースがその例だろう16)。ただこの場合も、巨大な陣営を備えた正統な守旧勢力と彼らを同一視すべきではない。彼らがどうして結果的に守旧的な作用をするのか、精巧な分析と適切な対応が要求されるが、この時守旧・保守同盟以外には陣営といえるものがなくなった分断韓国特有の現実に対する科学的な認識が要求される。過激かつ偏狭な進歩派が、逆に保守ヘゲモニーの延長を手助けする事態は、もちろんどこの国にもある。だが、韓半島では共産主義と反共主義をそれぞれ標榜する南北の支配勢力が対決する中、内部の支配力を互いに強化する奇妙な共生関係が作用しており、南では進歩主義が北に対する態度を中心にして分裂し、各自が単純論理に突き進む傾向が発生した。つまり、一方で北の政権も分断体制の一翼という認識が欠けたまま、彼らが標榜する自主統一路線を進歩の最高尺度とみる「民族解放」の論理があるかと思えば、他方で北の現実が同じ分断体制内に生きる私たちにも他人事ではないという認識なしに、その反民主・反民衆的な面を強調して、分断なき先進国の「左派的」アジェンダに没頭する単純論理がはやる。そして双方が、「意図とは異なって」分断体制の既得権勢力を強固にする「守旧的」効果を発揮する。だがこうした洞察は、巨大野党と群小野党、進歩運動などの様々な“自殺ゴール”をのんびり楽しんで、その時々に誘導もする真の保守陣営の存在に対する認識を曇らせてはならない。南の現実把握で世界的な視角とともに韓半島的な視角が重要な理由でもある。

 この闘いで、短期的課題と中期的課題を混同してはならない例として、最近急に話題になった改憲問題を挙げうる。87年憲法を時代の要求にあわせて改定することは、87年体制を克服する重要部分であるのは言うまでもない。だが、これは最低限、2016年総選挙を通じて「87年体制以後」への転換に対する国民的な意志が確認された時に実現可能な課題であり、現状況でただ「帝王的大統領制」を牽制するとの名分で、87年体制で最大の既得権集団の一つである国会議員同士で推進する改憲ならば、既得権者の談合以上にはなりがたい。現行の憲法下でも可能で、憲法を改定すべき時に必ず伴うべき選挙制度の改革を避けたまま、二元執政制または内閣制に改憲をしようという発想がまさしくそうだ。それよりは、勝者独占制の緩和と大統領の任意的人事権の行使の牽制、国会改革、地方分権の強化などすぐにも可能な成果を出すように最善を尽くすべきであり、そうしてより民主的な権力構造に向けた様々な方案を公論化し、2016年総選挙後にきちんと憲法を改定するという中期的目標を立てるのが正道だろう17)。反面、中期的課題としての改憲を今論議することまで大統領が妨害するのも、「帝王的」(または「帝王志望的」)しぐさをまたも示したに外ならない。

 要約すれば、「より良い代議政治」を通じて民主主義を増進して社会統合を追求する作業が中期的目標となり、この間に進行した民主主義の逆転を阻止し、新たな反転を生み出す機会をとらえるのが短期的目標になるはずである。効率的な闘いのために、短期・中期目標の識別と適切な配合が必要であると強調したが、つけ加える点は長期的目標を正しく設定し、これを中期・短期の課題と結合することも、これに劣らず重要である。例えば、理想的な代議民主制が最終的な目標なのか、それよりもっと抜本的な「民の自治」、つまりグローバル次元での全面的な住民自治を志向するのか、熟考すべきだろう。

 これは、切迫した戦場に公然と遠大な話を引き入れる暇なお遊びと映るかもしれない。だが、何を最高の志向点とするかにより、短期的に展開される様々な努力に対する評価も異なってくる。例えば、地方自治の実質化のための各種の草の根運動は、「民の自治」が理想的な代議民主主義の補完財というよりも、人類が共有すべき夢だと思うとさらに力を得るはずだ。密陽の送電塔反対運動や済州島のカンジョン村の住民運動も、国家権力への一部住民の過剰な反発とは全く異なる意味を帯びるようになる。ただ、なぜ「理想的な代議政治」より「民の自治」がもっと望ましいのか、望ましいにしてもいかにして可能なのか、その可能性を切り開く世界体制レベルでどういう変化が進行中なのか、などに対する篤実な練磨に支えられねばならない。そうした場合、「住民参加の相対的な拡大」と「より良い代議政治の具現」という中期的目標との一層着実な結合も可能になるだろう18)。

・民生の危機と「民生フレイム」
 朴槿恵候補が当初から政治的民主主義には特に関心がなかったのに比べて、民生危機の解決と「経済民主化」は彼女の核心的な選挙公約だった。それだけ、金大中元大統領が警告した「中産層と庶民経済の危機」が李明博時代に深刻になったという証であろう。だが就任後、彼女の相次ぐ公約破棄のせいもあるが、とにかく庶民経済が良くなった兆候はなく、李明博式の「大企業フレンドリー」政策への転換にも拘わらず、今は輸出の展望を含めた韓国経済の全体的危機を心配する声さえ聞かれるようになった。この場合も、確かに朴槿恵個人が李明博よりもっと反民生的だというよりも、転換すべき時期に転換できなければ、現状維持ではなく事態を悪化させるという教訓に当たるだろう。

 経済や福祉政策の門外漢である私としては、その問題を詳細に論ずる考えはない。それよりは本稿の論旨通り、民生の危機が他の危機と有機的に連関することを認識し、長・中・短期の目標を配合して韓半島と東アジア地域、そして地球全体を同時に考える姿勢の重要さを強調するのに重きを置きたいと思う。

 朴槿恵政権の経済民主化の放棄が、民主主義全般に対する軽視や逆行と密接に関連するのはあらためて説明する必要もない。民意の民主的手続きを尊重する政府ならば、このように公然かつ一方的に経済政策を変えながら、「信じようと信じまいと」式の言い訳では乗り越えられなかっただろう19)。民生の悪化は南北関係の危機とも直結するが、南北の経済協力とユーラシア大陸への進出という韓国経済に固有の可能性が対北強硬路線(ないし管理能力の不在)に相変わらず妨げられ、(2010年)5・24措置という自害行為の影響が持続している。

 同時に、韓国経済の現況は韓半島だけでなく東アジア地域、さらに世界経済とも直結している。世界経済の波及効果は、政府当局も庶民経済の危機の責任を転嫁するとか、大企業中心の政策を弁護する論理としてよく話題にされる。もちろん、全く根拠のない話ではない。その点も無視したままで万事を政府の責任に転嫁するとか、経済は除いて民主主義ばかり叫ぶと、「民生に顔をそむけた政争」という逆攻勢にあうのがオチだ。従って短期的には、庶民生活の難しさのどこまでが世界的不況のせいなのか、どこまでが例えば中国の成長の鈍化(または技術競争力の強化)のせいで、どこからはそうした世界的・地域的条件下でも政府と企業、その他の経済主体がうまく打開しうることもやらないせいなのか、精密に分析すべきである。さらに、その打開のための中期的戦略をたてながら、長期的にはどういう経済生活、どういうグローバル経済を志向するのかを合わせて練磨する必要がある。これに関連して、私は韓国人の立場で経済成長自体を否定するより、「現存世界体制に対する適応と克服の『二重課題』の遂行が要求する程の適度な成長、そうした意味で攻撃的であるより防御的な成長へとパラダイムを変えるべき」20)だと主張したことがあるが、専門性を備えた方々による真摯な討論を望む。なお、成長のために全力投球しても不十分なのに、初めから「適度な成長」をめざして何ができるのかという反論ならば、ひたすら全力投球するのは長期的に虚妄な戦略であるばかりか、中・短期的に賢明な選択をするのにも不利な点を想起させたいと思う。

 物質的不平等の問題に関連しても、抜本的かつ複合的な視角が要求される。韓国での貧富格差の拡大は、短期的に高い自殺率と失業率など深刻な民生問題を生むだけではなく、内需経済の鈍化など経済成長にも逆効果を生み、各種の社会費用を増大させる実情である。だが、これは韓国だけでなく日本や中国のように割合経済的な成功を収めた地域国家や、相変わらず世界経済の中心である米国でも広がる現象なので、中期的に韓国が国内政策のみならず国際舞台でも新自由主義の大勢に順応する道を選ぶのか否か、深刻に悩まざるを得ない。さらに、資本主義世界体制は一体格差拡大を防ぎうる体制なのか、少なくとも一定程度以上の貧富格差があってこそ作動する体制が、自己崩壊を避けうる線で貧富格差を括りうる能力を保有しているのか21)、万一保有しないなら、私たちはどういう対案社会を志向し、設計するのかなどの長期的課題に突き当たる。

 長期的に見て、均等社会が理想だと語るのはたやすい。だが、完全な平等が実現される社会が果たして可能か、可能だとしても満足しうる文明社会になるのかなどは簡単に答えうる質問ではない。私は、物質的平等こそ完全な民主主義と人間個々人の自己発展に必須だが、同時に「民衆が自ら治める対案的秩序ないし『体系』に対する経綸」22)が作られないと平等のための闘いは成功しがたいと力説したことがある。ここでは、こうした長期の展望と経綸を備えることが中・短期的な課題の遂行にも助けになることを強調したいと思う。遠大なる長期的課題へと進む道の遠く、複雑なことを認識すればするほど、中・短期の闘いでより賢くなることができる。性急に「無条件平等」を叫ぶとか、一国レベルの平等社会の実現を掲げる場合、当面食べて暮らすことに追われる大衆から嫌われ、既得権陣営の「民生フレイム」をむしろ強化させるからである。

・南北関係と自主、平和、統一
 李明博政権が造成した危機を朴槿恵政権が改善できるか、もう少し見守るべき分野が南北関係である。これまでレトリックの豊富さに比べて達成したものは特にない。だが、金大中政権と盧武鉉政権が相対的にうまくやった分野でほぼ急転直下の後退を示し、5・24措置という超憲法的な措置で盧泰愚政権以来20余年の流れを覆したまま、残りの任期2年半を無為に過ごしたのが李明博大統領である。従って後任者は、戦争でも始めない限り、悪化させる余地も多くはなく、これ以上の悪化は周辺の強大国も心配させるに至った。多少の改善がそう難しくはない局面である。

 それでもまだ進展がないのを政府や与党は北側の責任に転嫁しており、また南北関係が悪化すればするほど北側の責任論が世論に受け入れやすくなるのが現実でもある。南で反民主的な政治が威勢を張りながら、唯一南北関係だけが画期的な進展をみせることはないというのが分断体制論の長年の主張である23)。従って、朴槿恵政権が南北関係の画期的な進展どころか、きちんと復元でもしてくれると期待するのは控える方がいい。ただ、北朝鮮叩きで世論の支持率を高める方式もあまり関心を引かず、何よりも南北の経済協力なしには韓国資本主義の未来が暗澹たるという認識が既得権勢力内でも広がっただけに、多少の改善は依然可能かもしれない。

 この場合、国内民主主義とは別途に――民主主義と決して無関係ではないが――もう一つの問題がある。南北問題を国家間の関係として扱おうと、統一を前提にした特殊な関係として接近しようと、問題を自主的に解こうという意志と能力が必要だが、この面で朴槿恵政権は李明博政権よりもっと情けない選択をした。盧武鉉政権が米国と2012年で合意した戦時作戦権の回収を李明博政権は一度延期したが、朴槿恵政権はこれをほぼ無期限に延期する新たな決定を下した。これをさして、公約破棄という非難があるのは当然だが、公約破棄の次元に局限すべき問題では決してない。良かれ悪しかれ、国家がある限りは主権があるべきで、国家の主権には有事の際に自国の軍隊の動きを統制しうる権限が核心的なものだ。そうした軍事主権の回復が予定されていたのを、国会や国民の同意もなく一方的に覆したのは、朝鮮戦争の渦中で李承晩大統領が作戦統制権を丸ごと米国に譲ったことよりもっと深刻な主権の譲渡行為だと言わざるをえない24)。今や韓国は南北間の交渉テーブルや六者会談に臨むのも完全な当局者としての行為が困難になり、より大きな問題は、完全な行為者になる意志さえない軍部に対して文民政治が統制権を発揮できない現実である。

 わが社会で自主性の問題がこれほど深刻なのに、それに対する真摯な論議がとても足りない実情も分断体制と無関係ではない。周知のように、「自主」は北側体制の最大の「自慢の種」であり、「わが民族同士で自主統一」を当面の実行目標に掲げる一部の統一運動勢力の主な関心事でもある。だが、韓半島の分断が外部勢力によって強要されたため分断体制は本質上非自主的な体制である以上、一方は自主のシンボルだが、他方は民族解放を待つ植民地と見るのは、分断体制の複雑さを看過した論理である。朝鮮民主主義人民共和国の場合、軍統帥権を自国の指導者が保有するのはもちろん、外国軍の駐屯もなく外交・軍事政策に対する他国の干渉が通じない点で「自主路線」を誇るだけはある。しかし、自主性の概念を広くとらえ、「個人であれ集団であれ、本当に自ら必要で自らが望むものを他人の干渉なしに成就できる状態が自主だとすれば、朝鮮民主主義人民共和国とその住民こそ、今日(誰かの誤りのためであれ)極めて深刻な自主性の制約を受けていると見るべきである」25)。また、「自主統一」は(1972年)7・4共同声明と6・15共同宣言の第1項で重ねて言明された原則だが、これはどこまでも外部勢力に依存した統一はしないという原則的宣言であり、具体的な統一方案の合意は6・15共同宣言の第2項にある。それでも、宣言的条項を具体的方案であるように振り回すのは、漸進的・段階的な「韓半島式の統一」を推進する意志や経綸の不足と言わざるをえない。そうしてきた結果、自主性自体を「親北的」アジェンダとみる情緒さえ生まれた。とはいえ、南北関係の発展と平和、統一を論じる場合、省略できない主題として蘇らせるべきアジェンダが自主性である。

 実は、統一問題自体が近年の選挙では特別な争点になりえなかった。これは平和統一を念願する勢力が、それを国民の生活問題と密着した懸案として提示できなかったせいもあるが26)、私は、選挙でどのように有権者を説得するかという問題とは別個に、分断体制の克服という中期的目標を正確に設定することの重要性を強調したい。そうした時に、国民は統一に無関心なので「統一」より「平和」で勝負をかけようという、選挙戦略としても「逃げのピッチング」に該当する、理論的にもお粗末な主張の誘惑から免れることができるだろう27)。

 しかし長期的には、やはり統一よりも平和である。単なる戦争不在ではなく、人類が等しく和合し、楽に暮らす状態としての平和であり、その時は国家も今私たちが知る形ではなくなるはずだが、「国家の自主性」も中期・短期的な目標以上にはなりにくいだろう。とはいえ、そこに行く前に韓半島の住民と韓民族は分断体制の克服という中期的課題をまず遂行すべきである28)。このため、すぐに可能な南北関係の改善作業と自主・平和統一過程の進展を図り、長・中・短期課題の適切な配合を達成すべきはもちろんである。『つくり』で「包容政策2.0」を提議するなど、この問題を比較的詳しく論じたので本稿では省略する。


筆者注:
※文中の「チャンビ」は季刊「創作と批評」
1)本稿は、第96回細橋フォーラム(2014年9月19日、細橋研究所)で発題した内容を大幅に修正・補完したものである。フォーラムには姜元澤ソウル大学政治学科教授と朴聖aMINコンサルティング代表が約定討論者として参加し、細橋研究所の会員以外にも金錬鉄、青柳純一、李基政、李泰鎬、鄭鉉栢など様々な方々が参席して討論に加わった。当日参加された方々に感謝する。「2013年体制」企画を集中的に提示した拙著として『2013年体制つくり』(チャンビ、2012年。以下、『つくり』)があるが、それ以外にも様々な発言を通じて主張し、「希望2013、勝利2012円卓会議」(2011年7月〜2012年12月)という市民社会各界人士の集まりの名称の一部にも反映された。

2)詩人陳恩英は、セウォル号惨事後の選挙で、「手伝ってください」「助けてください」という与党の訴えがかなり有効だったのに対し、「あらゆる力関係を施恵の関係で表象するような言説が乱舞する瞬間、私たちは施す支配者、弱者が可愛くて涙を流す人情厚い権力者を受け入れるのが最善の選択だと考えるようになる。……もちろん立場の逆転は可能である。私たちは有権者として選挙期間中は優勢でありうる。でも、やっと与えられた優勢さは合理的な選択の場ではなく、施しを受けた者の反対表象、つまり施す場となる」と述べ、「神聖な選挙に政治的意味をもたせうる唯一の道は、選挙にのみ収斂されない政治的活動を活性化することだけだ。私たちは善良さの枠外に出て他の活動の喜びを感じうる可能性を思惟すべきである」と力説する(陳恩英「私たちの念願は正午の影のように短く、私たちの羞恥心は夜中の12時のように長い」『文学トンネ』2014年秋号、420頁、423頁)。

3)この点で、「悲劇はまた別の悲劇の始まりにすぎず」(李大根コラム「私たちはどこまで崩れうるのか」『京郷新聞』2014.9.4.)という断言は、積功と転換の可能性を事前に遮断する速断でありうる、と私は思う。

4)黄貞殷「辛うじて人間」『文学トンネ』2014年秋号、447頁。

5)朴槿恵候補の当選直後も、新政権への期待は少なくなかった。『創作と批評』2013年春号の座談会「2012年と2013年」の出席者(金龍亀、白楽晴、李相敦、李日栄)の間でも期待する雰囲気が歴々だった。私自身は朴候補に反対した者として、就任以前に否定的な予断をするのは理に合わないと判断し、政権の展望に1〜2点の留保的コメントに止めたが(37〜38頁)、顧みると、当時の憂慮が大部分現実化した感じである。

6)87年体制に関しては、金鍾曄編『87年体制論:民主化後の韓国社会の認識と新たな展望』(チャンビ談論叢書2、チャンビ、2009年)を参照。

7)拙著『どこが中道で、どうして変革か』(チャンビ、2009年)の第7章「変革と中道を再考する」178頁。

8)例えば、朴昌起『革新せよ、韓国経済:利権共和国大韓民国の経済改革プラン』(チャンビ、2012年)の第12章「財閥封建体制論」を参照。

9)朴a奎「目がくらんだ者どもの国家」『文学トンネ』2014年秋号、438〜439頁。

10)1997年と2000年の関係、そして金大中政権と李明博政権の経済危機への対応方式の違いに関しては、『どこが中道で、どうして変革か』の第13章「2009年分断現実の一省察」278〜279頁を参照。

11)1948年政府樹立(「建国」とは言わなかった!)の記念行事を主管した「国民祝賀準備委員会」の懸賞募集で、1等なしの2等に選定された標語が「今日は政府樹立、明日は南北統一」だった。洪錫律「大韓民国60年の内と外、そしてアイデンティティ」『創作と批評』2008年春号、53頁(国史編纂委員会刊『資料 大韓民国史』第7巻、1974年、811〜39頁を根拠として提示)。

12)これに関し、拙稿「朴正熙時代をどう考えるか」『韓半島式統一、現在進行形』、チャンビ、2006年:および白楽晴・安秉直の対談「韓半島の未来に対する国民統合的な認識は可能か」『時代精神』2010年春号、298〜301頁の李承晩と朴正熙に対する比較を参照。

13)康俊晩『不作法な進歩:進歩の最終執権戦略』人物と思想社、2014年、200頁。

14)拙稿「社会統合、不可能なことではない」『チャンビ週刊論評』2013年12月27日(http://weekly.chanbi.com/?p=1609&cat=5)。

15)もちろん生計型、出世志向型は極左にもいる。今は彼らの世の中ではないだけだ。

16)「進歩、意図とは異なって守旧反動、この事実を知らぬが悲劇」金大鎬社会デザイン研究所長へのインタビュー、オーマイニュース2014.10.6.(http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002039894)を参照。

17)こうした主張の一例として、金南局「改憲はいつ、何のために必要か」(ハンギョレ、2014年11月3日)を参照。

18)敢えて敷延すれば、「短期」「中期」「長期」は相対的な概念である。例えば、当面に達成できうる課題を「短期」と呼び、人類次元の究極的目標を「長期」と呼べば、その中間のすべてが「中期」に該当するが、私たちが数年の積功で達成できるだけのことを「中期」と限定すれば、それ以上の課題は様々に異なる次元の「長期」課題になる。

19)87年体制は「政治的民主主義」を達成したが、「経済・社会的民主主義」の達成に失敗したという一部進歩派論客の主張は、そうした有機的な連関性を看過して「政争より民生」というフレイムをむしろ強化する面がある。87年体制は政治的基本権の伸長に大きく寄与して経済の民主化と持続的発展にも――87年7〜8月労働者大闘争と以後一連の状況展開に見るように――画期的な転換点をつくった。

20)『つくり』77頁。「二重課題」に関しては李南周編『二重課題論:近代適応と近代克服の二重課題』(チャンビ談論叢書1、チャンビ2009年)を参照。

21)これに対する賛否の論議を扱った著作として、Immanuel Wallersteinなどの共著 Does Capitalism Have a Future?(Oxford University Press 2013):および否定的な展望を異なる視角から提示した Wolfgang Streeck,“How Will Capitalism End?” New Left Review 87(2014年5-6月号)を参照。

22)拙稿「D.H.ロレンスの民主主義論」『創作と批評』2011年冬号、408頁。

23)それでも、李明博政権初期に私自身が南北経済協力だけは「実用主義者らしく」うまくやるかもしれないという期待を一時抱いたことについて、自己批判したことがある(「2009年分断現実の一省察」『どこが中道で、どうして変革か』267〜68頁)。

24)この点でも、朴槿恵政権は朴正熙時代よりむしろ李承晩時代に似ていく面を示している。朴正熙大統領は、たとえ李承晩が譲渡した軍事主権を取り戻せなかったが、その意志は強く、随時公言してもいた。こうした対照については、金鍾求コラム「恥ずかしさを知らない『朴正熙キッズ』の軍首脳部」(ハンギョレ2014年11月4日)が痛烈である。

25)拙稿「分断体制の認識のために」『分断体制変革の勉強の道』、創作と批評社、1994年、19頁。

26)細橋フォーラムで、金錬鉄仁済大学教授と権台仙ハフィントンポスト・コリア代表がともにこの点を指摘した。特に金教授は、兵役年齢人口が急減し、いわゆる「関心兵士」が兵士の大多数を占める展望が優勢な韓国の現実で、募兵制への転換が若者とその父母を同時に動かしうるアジェンダだと説明し、私も概ね共感したが、このように開発しうるアジェンダがもっとあると思う。

27)もちろん、原論的には平和が統一より普遍性が高い概念である。しかし、分断された韓半島で平和を実際に具現しようとする場合、「統一」を絶対視して平和を危険に落とし入れてもダメだが、分断体制克服という課題を避けて平和にのみ没頭しても平和は実現しない。これに関しては、拙稿「韓半島に『一流社会』をつくるために」、『創作と批評』2002年冬号(拙著『韓半島式統一、現在進行形』、チャンビ、2006年、第10章)。徐東晩「6・15時代の韓半島発展構想」『創作と批評』2006年春号、219〜22頁:柳在建「歴史的実験としての6・15時代」、同書288頁、および同「南の『平和国家』つくりは可能な議題か」(『チャンビ週刊論評』2006年8月22日)など参照。

28)注18)で述べたように、「中期」は相対的概念である。世界体制の変革より先立つという意味で「中期」としたが、87年体制からの転換を達成して国家連合――中でも現実性がある「低い段階の連合」――へ進む作業を「中期」と設定すれば、分断体制の克服はそこからさらに進まねばならないという意味で、より長期的な目標にならざるをえない。