小島正憲の凝視中国

「井川一久さんとともに開高健を歩くベトナムの旅」 同行記 


「井川一久さんとともに開高健を歩くベトナムの旅」 同行記 
11.FEB.11
《目次》
1.ベトナム戦争年表  2.米国との戦争 3.中国との戦争 4.日本とベトナム 5.私とベトナム 6.ベトナムの現状
7.歴史余話

                    

1/28から2/03まで、私は上記のベトナムツアーに参加し、井川一久氏の案内で開高健の足跡を訪ね回った。
井川一久氏は、朝日新聞のサイゴン支局長として、作家:開高健とともに、ベトナム戦争の現場で弾の下をくぐりながら取材を行った歴戦のジャーナリストである。今回、私は井川氏から直接、現場で、ベトナム戦争の真相がいかに複雑であったかを教えていただいた。それを聞き、私は「わが青春時代の反戦運動」が、いかに浅はかなものであったかを知った。旅行中、私は恥じ入りながら、始終、身を小さくし続けていた。

なお開高健は、名ルポ「ベトナム戦記」(1965年3月7日)の最後を、「とにかく私たちは見てきた。結論は読者におまかせします」という文章で締めくくり、結論を出していない。
今回、井川氏は、「開高さんに現在のベトナムを見せたかった。彼は何を思い、どう表現し、どのような結論を出すのだろうか?」と、その死を惜しみ、残念がっておられた。以下はその同行記である。
(企画:催行 富士ツーリスト)
※南ベトナムの旧首都名は現在ホーチミンと改称されているが、人名と混同しやすく紛らわしいので、本文中では旧名のサイゴンとした。

1.ベトナム戦争年表  複雑なベトナム戦争を理解しやすくするために、まず年表を掲げておく。
※ 赤字の部分は米国との戦争に関する重要部分、青字の部分は中国との戦争に関する部分。

1945年 3月 日本軍が仏中印軍を武装解除 バオ・ダイ帝 「ベトナム」の独立宣言
       8月 ベトミン総蜂起決定     日本が連合国に無条件降伏
1946年 3月 フランス軍がハノイ入城  フランス軍とベトミンがハイフォンで武力衝突
1950年 4月 ホー・チ・ミンら中国昆明を訪問、軍事訓練所開設

1953年     ベトナム北部で、中国モデル土地革命実施
1954年 5月 ディエンビエンフーで仏軍降伏 中国観戦武官の退出
       7月 ジュネーブでインドシナ休戦協定調印
           10月 アイゼンハワー大統領、ゴ・ディン・ジェム政権に軍事援助約束
1956年 8月 レ・ズアン南部武力解放を提案 土地革命についてホー・チ・ミン自己批判 チュオン・チン書記長解任
1959年 1月 南ベトナム武力解放決定 戦争準備指令
1960年 1月 メコンデルタのベンチェで初の武装蜂起  9月 第3回当大会 南部武力解放決定
1961年 1月 ケネディ新大統領就任  ジェム政権、米戦闘部隊の派遣を要請
1963年 3月 ケネディ暗殺、ジョンソン新大統領就任
1964年 8月 第1次トンキン湾事件 北への報復爆撃命令
1965年 2月 北爆開始  10月 米国内で反戦運動始まる
1968年 1月 テト攻勢  5月 米・北第1回パリ会談  11月 ニクソン新大統領就任
1969年 1月 解放戦線、テト明け攻勢  9月 ホー・チ・ミン死去

1970年 4月 インドシナ人民首脳会議  南政府軍と米軍がカンボシア侵攻
1971年 1月 南政府軍がラオス侵攻  ニクソン、ドル防衛政策発表

1972年 2月 ニクソン訪中  ベトナム、中国批判
1974年 8月 ニクソン辞任  フォード新大統領就任
1975年 4月 北正規軍、サイゴン総攻撃開始  米国人撤退開始  北正規軍、サイゴン入城
1976年 1月 周恩来死去  9月 毛沢東死去  レ・ズアン、中国批判
1977年 9月 ポル・ポト、親中路線明確化
1978年 4月 ベトナム在住華僑が大量帰国開始  中国・ベトナム紛争表面化
            5月 中国がベトナム援助打ち切り
           7月 中国技術者総引き揚げ
         12月 ベトナム軍、カンボジアに侵攻  国交断絶
1979年 1月 プノンペン陥落
           2月 中国軍、ベトナムに侵攻 
            3月 中国軍、ベトナムから撤兵開始
1986年 7月 レ・ズアン死去 チュオン・チン暫定書記長 ドイモイ提唱  12月 グエン・バン・リン書記長就任
1987年 6月 グエン・バン・リン書記長、「ドイモイ」(刷新)政策の推進を表明
1988年 3月 南沙群島の領有を巡り、中国とベトナム海軍が交戦

2.米国との戦争 : 「ベトコンは勝ったのではなく、負けなかったのである」

1960年1月、メコンデルタのベンチェで、グエン・ティ・ディンが率いるベトコンが武装蜂起し、第2次ベトナム戦争が始まった。そして15年間、戦いを続け、1975年4月、見事にベトコンが勝利をもぎとり、米国をベトナムから追い出した。裸足のベトコンが、近代兵器を駆使した米軍に勝ったのである。

しかし実際には、1968年の終わりから69年の始めにかけて、ベトコンは政府軍と米国軍によって、壊滅寸前まで追い込まれていた。そのとき米軍が戦略を間違えなければ、ベトナムは引き続き米国の支配下に置かれていただろう。その意味で、「ベトコンは勝ったのではなく、米軍が戦略の失敗によって自滅したので、負けなかっただけである」と言える。

ベトナム人民軍歴史研究所所長のホアン・フゥン中将は、当時を振り返って次のように語っている(「ベトナム戦争全史」小倉貞男著による)。

「1968年はじめのテト攻勢によって、ジョンソンは、デスカレーション(段階的縮小)を指示し、米軍の撤退を決定した。われわれは決定的な転換点だと思った。しかしまさにこのとき、1968年終わりから69年はじめにかけて、非常に多くの困難に直面した。テト攻勢後、われわれはいくつかのあやまりをしてしまった。第一に、地方のことをあまり考えなかった。われわれは、テト攻勢のために、武装勢力、政治幹部たちを地方から都市へ移動させた。その結果、後方基地を放棄してしまった。68年、敵は地方の地域を支配するため、平定作戦をはじめた。この作戦によって、非常にたくさんの地方の基地が破壊され、根拠地は占拠された。なかでも兵員の補充が難しくなったことは大きな痛手だった。正規軍は困難に直面した」、「南ベトナムにいる革命軍の命綱である北から南への補給ライン、ホチミン・ルートへの爆撃は想像を絶するものがあった。補給ルートが分断されてしまった。また、トラック輸送は天候に左右された。輸送がとどこおり米の補給が不可能になった。南ベトナムに深く入り込んでいた北の正規軍は、17度線地帯へ後退した。革命軍にはいちばんけわしい時期だった」。

ところがニクソン新大統領は、1970年、米軍のカンボジア侵攻作戦を承認した。侵攻作戦の目的は、カンボジア領内に逃げ込んでいるとみられるベトコンを補足すること、北ベトナム正規軍の補給基地を破壊することであった。ホアン・フゥン中将は、「1970年3月、米国はカンボジアの政変に成功した。これによって、ニクソンは革命軍のすべての根拠地をなくすことができると楽観的になった。だから、米軍とサイゴン軍は、カンボジア、ラオスに侵攻した。米国は、北正規軍を後方基地から放逐すれば、南ベトナムには小さなゲリラしか残らなくなり、革命軍は小さな規模の作戦しかできず、サイゴン政府軍が戦場の主導権をにぎることができるとみた。ベトナム化は成功すると予測したのだ。だが、逆にわれわれは、この二つの大攻勢によって息を吹き返したのだ。この攻勢をきっかけとして、われわれはカンボジアの奥深くに武装勢力を送り込むことができるようになった」と語っている。ニクソン自らベトナム化への転回点としようとしたインドシナへの戦争拡大は、北ベトナムにとって主導権をにぎるまたとない転機となったのである。

井川氏は、このニクソンの失敗について、戦略策定時における情報不足をあげている。また米軍がベトナムから撤退せざるを得なくなった大きな要因として、米国内における反戦運動の高まりを指摘している。さらにこのラオス侵攻作戦が米軍内に麻薬を蔓延させたと言っている。米軍がラオス西北部の黄金の三角地帯まで攻め込み、香港マフィアと結託した政府軍幹部が、兵員を送り込んだ輸送機に麻薬を積み込んできたのだという。

いずれにせよ、米国はベトナム戦争の膨大な戦費に苦しみ、1971年1月、ニクソンはドル防衛政策を発表し、2月、訪中を敢行し、ベトナム戦争を終結させる方向に進まざるを得なかった。

3.中国との戦争 : 中国の侵攻に怯え続けてきたベトナム

今回私は井川氏から、「ベトナム人は、仏・米・中の大国を相手にして47年間、戦い続け勝利した。しかしその道は平坦ではなかった。インドシナ3国の革命組織は一枚岩ではなく、中ソの策謀もあり常に反目し合っていたし、最終的にはベトナムとカンボジアは戦争することになった。さらに注目しておかなければならないことは、ベトナムが現在に至るまでも、中国の侵攻をきわめて怖れていることである。中越戦争も、あれは巷で言われているようにベトナムの勝利で終わったのではない。私はその現場を幾度も取材した」と、貴重な話を聞くことができた。

しかし残念ながら、井川氏から中越戦争の実相を聞き漏らしたし、もちろん北部国境沿いの戦場を見ることもできなかった。さらに話を聞きながら、ふと「同じく中国と国境を接していながら、中朝関係と中越関係はきわめて対称的である。それはなぜなのだろうか」と疑問に思ったが、この点についての井川氏の見解も聞く機会がなかった。ぜひ、近い将来、井川氏と共に、中越戦争の戦場を歩きながら、そこでこれらのことを聞いてみたいと思っている。

※以下は、井川氏の話を中心にして、「ホー・チ・ミン」(古田元夫著 岩波書店)、「ベトナム戦争全史」(小倉貞男著 岩波現代文庫)に依って、私がまとめたものである。

ニクソンの訪中を受け入れた中国に対して、ベトナム人は怒りを露わにした。労働党機関誌「ニャンザン」は、「自国の(中国を指す)狭い利益から出発して、もっとも反動的な勢力(米国を指す)が危険な打撃を受けるのを免れるのに手を貸すならば、それは、おぼれる強盗に浮き袋を投げ与えるようなもので、敵に有利で、革命に不利な悪質な妥協である」と、中国を激しく批判した。

ベトナム人にとって、歴史的にもこの米国との戦争中においても、常に警戒し続けなければならなかったのは、中国の影響と侵攻であった。また中ソ対立や文化大革命、米国との国交正常化など、そのすべてがベトナムの革命路線に深刻な影響を与えた。文化大革命のときには、ベトナムでも華人の紅衛兵が騒ぎ出し、街中が混乱をきわめたという。ホー・チ・ミン死後、実権を握ったレ・ズアンは、戦争が近代戦に突入し、大規模化し、武器の高度化が必要とされていた時期に中ソ対立が激化し、大量の軍事援助を入手するためにソ連に傾斜せざるを得なかった。

ホー・チ・ミン自身も、中国には幾度となく煮え湯を飲まされており、警戒心を緩めなかった。

1953年1月、ベトナム労働党は「中国モデル」の土地革命の実施を決定した。この土地革命は中国の経験を機械的に導入したため、実際には中農までが地主と断定され、土地没収、打倒の対象となってしまった。また土地革命と平行して行われた「組織整頓工作」の中で、既存の農村の党組織の多くが解体され、人民裁判による処刑も実施された。このような土地革命の行き過ぎは農村に不穏な空気を生み出した。この時点で、ホー・チ・ミンらは誤りに気付き、自己批判すると同時に、書記長であったチュオン・チンが身代わり辞任をした。このチュオン・チンが1986年、レ・ズアン死後、暫定書記長となり、ドイモイ政策の指揮をとるわけで、いわば彼はベトナムのケ小平のような存在であったと言える。

またホー・チ・ミンの右腕、ボー・グエン・ザップ将軍は、ディエンビエンフーの戦いのおりに、中国観戦武官たちが作戦に反対するので、「ここはベトナムだ。われわれが戦っているのだ。あなたたちがわたしたちに命令する権限はなにもない。ここからただちに出て行ってもらいたい。ただちにだ」と、怒鳴ったと言われている。

ベトナム戦争終結後、1975年4月、カンボジアの政権を掌握したポル・ポトは、それまでの米国との戦いでは同盟関係にあったベトナムに対して、国境一帯での軍事攻撃をかけるようになった。これに対して1978年12月、ベトナム軍は1000kmにおよぶ国境全域にわたってカンボジアに侵攻した。ポル・ポト政権を中国が支持していたために、中越関係はにわかに緊張した。またこれに先だって、レ・ズアン政権はベトナムに在住していた華人にベトナム籍を取得するように迫ったり、華人資本家の商売を禁止したりしたので、1978年4月から8月にかけて、華人約17万人がベトナムを脱出し中国に向かった。中国政府はレ・ズアン政権のこの華人に対する弾圧を糾弾した。余談だが、このとき中国政府の誘いもあって、中国に帰国した華人の一部が、広東省英徳市に住みついた。しかしそのとき華人に約束された条件が実行されなかったため、2009年5月、英徳市の帰国華人が暴動を起こした。
※2009年5月暴動情報検証参照。

1979年2月、中国は56万の軍隊をベトナム国境に集結させ、「懲罰行為」と称して、10万の軍勢でベトナム北部に侵攻した。ベトナム軍は圧倒的な兵力の中国軍を前にして、真正面からの衝突を避け、適度に反撃しながら後退した。中国軍はベトナム軍の後退に合わせて進軍し、ベトナム北部の要衝ランソンを始め、北部の5つの省を制圧した。しかしこのときベトナム軍の主力はカンボジア戦線に展開中であり、それの反撃をおそれた中国軍は、戦争の勝利を宣言したのち、3月6日から16日にかけてベトナム領から撤退した。

その後、ベトナムと中国は険悪な関係を引きずったまま、今日を迎えている。皮肉にも最近、ベトナム政府は、中国との陸上・海上での国境紛争を怖れるあまり、かつての敵国である米国との連携を模索し始めている。

4.日本とベトナム 
 以下は井川一久氏の「日本近代の逆説的矛盾と日本・ベトナム関係」の論考に、全面的に依るものである。
  ※以下@、A、Bの丸ゴシック体の部分は、井川氏の説。

@浅羽佐喜太郎と東遊運動

旅行中、井川氏から浅羽佐喜太郎についての話を聞いた。静岡県袋井市浅羽町梅山の禅宗寺院常林寺に、ファン・ボイ・チャウら越南維新会の主要メンバー3人が、1918年に建てた浅羽佐喜太郎の巨大な石碑があるという。私は帰国後すぐに常林寺に行ってみた。たしかにそこには浅羽佐喜太郎の大きな石碑が建っており、その由来などを書いた看板があった。私はそれを読みながら、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の関係は、孫文と梅屋庄吉の関係に似ていると思った。なお常林寺はJR袋井駅からタクシーで20分ほどの場所にある。

 

18世紀から欧米帝国主義諸国の侵略と支配に苦しんでいたアジア諸民族の間では20世紀初頭、自力で近代化に成功した唯一の非白人国家日本に対する期待感が急速に高まった。ベトナムでは代表的知識人の一人で独立運動の指導者でもあったファン・ボイ・チャウが、1904年にグエン朝の王子のクォンデを総裁とする越南維新会を結成して訪日し、日露戦争が日本の勝利に終わった1906年、民族独立を志す祖国の青年に日本留学を呼びかけた。これが東遊運動である。ベトナムの若者はチャウのよびかけに応えて続々と日本へ密航し、その数はやがて270人にも達した。
当初、日本政府はこれらのベトナム人に寛容であったが、フランス政府からの圧力により、越南維新会の留学生組織の解散を命じた。留学生たちは勉学の道を失って次々に日本を離れた。チャンとクォンデを中心として日本に残留した数十人は、常に日本警察の監視下に置かれ、その生活は祖国からの送金の途絶や日本人有志の援助の中断によって困窮を極めた。そのとき彼らに援助の手を差し延べたのが浅羽佐喜太郎である。

浅羽佐喜太郎は東京大学医学部を出て、神奈川県小田原市に個人経営の病院を開いた。そこで偶然に栄養失調で行き倒れになっていたベトナム人を救ったことから、東遊運動との関係の始まりであった。その後、佐喜太郎は彼らに大金を送り、さらに住居を追われた留学生たちを自分の病院に保護した。佐喜太郎は1910年に43歳で亡くなったため、ファンらが、遺徳を偲んで佐喜太郎の故郷に石碑を建てたのである。

A明治維新の本質

井川氏は、明治維新がその後の日本人に与えた思想的影響について、卓越した見解を述べている。私はそれを読んで、現在の我々の置かれた位置を深く考えさせられた。長文になるが以下にそれを記しておく。

・欧米帝国主義の脅威が生み出した強烈なナショナリズムが、一方では日本の歴史と文化を代表してきた皇室の権威と結びつき、他方ではすでに機能不全状態に陥っていた幕府および日本的封建制に対する失望感と結びついた。その結果、欧米資本主義に対抗するには欧米諸国と同じ機能的な国民国家を築かなければならないという認識が武士とブルジョワを中心とする知識層に浸透し、それが幕府打倒の武力行動となって現れたのである。明治維新を実現した勢力にとって、幕府は必ずしも憎悪の対象ではなかった。また幕府の側にも欧米帝国主義の脅威に対する危機感があり、その内部には「尊皇攘夷」勢力に内心共鳴する分子が少なくなかった。それゆえ幕府の抵抗は微弱で、幕府打倒の内戦はごく短期間で終結した。また幕府の政治・軍事官僚の多くは、明治維新ののち新政府の高官となり、封建領主はすべて明治国家の貴族となった。
・日本人とりわけ知識人の多くは、社会秩序の永続性を尊ぶ「和合と安定」の日本的価値観と秩序破壊を辞さない「競争による発展」の欧米的価値観の対立や、物質的利益の追求を恥とする日本武士道の精神と、それを善とする欧米資本主義精神の対立に悩まされた。日本伝統の価値観に立って近代欧米の価値観に反発しながらも、同時に近代欧米の価値観に引き寄せられるという矛盾した意識は、その後、一種の「精神における癌」となって日本人の心理に深く残った。
・欧米を模倣した近代化の努力は、欧米帝国主義に対して自衛するという極めて愛国的な、また反帝国主義的な動機によるものであった、それは欧米帝国主義の支配に苦しむアジア諸民族への共感、さらにアジア諸民族の自己解放運動を助けようという志向を生んだ。これが後年、「アジア主義」または「大アジア主義」と呼ばれるようになった理念である。しかし欧米資本主義諸国を模倣した近代化の成功は、日本自身を必然的に帝国主義へ導いた。そこから欧米諸大国とともに、または欧米諸大国と競争しつつ、アジア諸地域に日本の勢力圏を拡大しようという志向が産まれた。明治維新をもたらした日本人のナショナリズムは、欧米的近代化の過程で、こうして二つの相反する方向−帝国主義の方向と反帝国主義の方向−に分岐し始めた。

Bベトナム独立への日本軍人の貢献

1945年3月、仏領インドシナ駐留の日本軍は、ベトナム・ラオス・カンボシアの3国をフランスの軛から解放し、名目的に独立させたが、同年8月、連合国に降伏した。そのとき仏軍は活動の一切を停止していた。ホー・チ・ミンに率いられたベトミンはその間隙を突いて武装蜂起し、仏軍の全行政・軍事施設を占拠し、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。だが仏軍は新たな軍隊をベトナム南部に派遣してサイゴンを占領し、ベトミンとの戦いを開始した。初歩的な軍事技術や火器すらほとんど持たぬベトミンは最初から劣勢に立たされた。そのときベトナムに残っていた日本軍諸部隊の将兵が続々と離隊し、約600人がベトミンの戦列に加わり、その劣勢を跳ね返す大きな力となった。その多くは仏・米との戦争中に亡くなり、ベトナム人兵士とともに烈士墓地に葬られているが、墓碑がすべてベトナム名で記されているので、本名の確認は不可能に近い。彼らの中には後述するグエン・ソンを校長とする陸軍中学の教官となり、対米戦争の幹部を送り出した者もいる。

  
       烈士墓地前で

今回私たちが訪れたベンチェ県モーカイ村の烈士墓地には、日本人兵士4名がいっしょに眠っているということだったが、やはりその氏名を確認することはできなかった。

5.私とベトナム

@ベトナム反戦運動

私は学生時代、ベトナム人民支援の旗を高く掲げ、米国のベトナム侵略反対運動に全力を投じていた。当時、私は「ベトコンが米軍を一方的に押しまくり、ついに勝利をもぎ取った」、「ベトコン、クメール・ルージュ、パテト・ラオの3者は、堅い団結を誓って、米軍と対峙していた」、「中国はベトナムを全面的に支援し、ベトナムは中国を後ろ盾として信頼していた」などと、巷に流れていた情報を信じ切っていた。ところが今回、井川氏から、「あのテト攻勢のあと、ベトコンは壊滅寸前まで追い込まれていた」、「ベトナム、カンボジア、ラオスの革命組織は互いに信用しておらず、最終的には戦うことになった」、「ベトナムは中国の侵攻を始終警戒していた」などと、その真相を知らされ、大きなショックを受けた。

私は真実を知ることがいかに難しいかを理解し、同時に、だからこそ真実を伝えることがいかに大事であるかを肝に銘じた。

Aハイリスク・ハイリターン  ※拙著「アジアで勝つ」(P.9〜13)参照。

1976年5月、私は名古屋中小企業家同友会経済視察団の一員として、友人といっしょに、まだ硝煙がただようサイゴンに乗り込んだ。この視察団には朝日新聞名古屋本社経済部の滝沢清彦記者が同行していたが、なぜかサイゴンで朝日新聞支局長の井川氏とは会うことがなかった。あのとき私たちが井川氏に会うことができていれば、その後の人生が大きく変わったことだろう。

またこれが私の人生で最初の海外旅行でもあった。この旅行に誘ってくれた私の友人は、大学卒業後、世界を駆け巡っており、海外旅行についてはいわば大先達であった。臆病な私は、その彼に引きずられるようにして、大統領官邸の中などを見て回った。ある晩、彼がいやがる私を、サイゴンの真っ暗な町に誘い出した。するとある街角で、おばさんが私たちをみつけて手招きをした。私たちはそれに吊られて店の中に入って行った。店内には金銀や象牙、鼈甲の細工物などが、ぎっしりと並べてあった。おばさんはそれら全部を格安で売るという。さらに彼女は、黒檀の象の台に乗せられた相撲取りの足ほどある総彫りの象牙を指さし、それを70ドルで売るという。私たちは、その豪華さとその安さに驚き、思わず顔を見合わせた。友人はすぐにそれを買うと返事をしたが、私は躊躇した。

なぜなら私たちは経済視察団の一員としてサイゴンに来ているのであり、団長から、指定された店以外での買い物を禁止されていたからである。こんな大きな象牙を買い込んだら、すぐにばれてしまい、出国するときに税関で止められ、視察団に迷惑をかけるのではないかと思ったからである。私は友人の袖を強く引っ張り、買うのを思い留まらせた。そのかわり、他の小さなものを買い漁った。それでも私の腕ほどの総彫りの象牙を10本、総鼈甲のハンドバックを4個、銀細工のペンダントなどを20〜30個、螺鈿細工の額を10枚、なにかしら古そうな骨董品を10個など、総額100ドルで買った。走ってホテルへ帰り、それらをトランクの中に詰め込んだ。数日後、ベトナムを出国するとき、私たちは胸をドキドキさせながら、税関を通った。ところがそこではなんの検査もなかった。飛行機がベトナムを飛びたってから、二人はあの巨大な象牙を買って背負ってくるべきだったと、深く後悔した。私はこのとき、ビジネスというのはハイリスクであるが、それに果敢に挑戦した者だけがハイリターンを享受することができるということを、体験した。そしてこれが私のその後のビジネス・スタイルを決定した。

今回、私はサイゴンであのおばさんの店を探したが、どうしても見つけ出せなかった。多分、彼女は華僑で、その後、ボートピープルとしてサイゴンを後にしたのであろう。

Bニャチャン

1995年、わが社はA商社から、ベトナムのニャチャンへの進出の誘いを受けた。このときすでに、わが社の中国での事業は一段落しており、香港返還に伴う中国激変に備えて、リスクヘッジのために中国以外の国に工場を建設することを考えていた。したがってA商社の勧誘も含め真剣に検討した。私はひとまずサイゴン市内の縫製工場を4〜5社、訪問してみることにした。するとそのほとんどがすでに韓国系の繊維会社との取引関係を持っていることがわかった。私はベトナムでは、韓国企業の後塵を拝することになると考え進出を断念した。そして翌年ミャンマーへの進出を決断した。

今回、井川氏から、「ニャチャンには1995年ごろから中国企業が多く進出し、同時に中国人観光客も多く押し寄せ、風紀がたいへん乱れ、エイズが多いような町に変わってしまった」という話を聞いた。私は、あの当時のことを思い出し、もしニャチャンに進出していたら、いまどきどのような展開になっていたのだろうかなどと、考えてみた。

Cディエンビエンフー   ※2009年4月の拙論「ホーチミンと毛沢東」参照。

2009年、私は例の友人と二人で、ハノイとディエンビエンフーを訪れた。私たちは、ハノイのホー・チ・ミン廟で眠っているホーおじさんに会った。またディエンビエンフーでは塹壕の中を走り回った。

6.ベトナムの現状

@旧正月で賑わうベトナム

サイゴンの街中には派手な猫の飾り物が氾濫していた。なぜならベトナムでは干支にはウサギがなく、代わりに猫が入っており、今年は猫年に当たるからである。ちょうど私たちは大晦日から正月にかけてサイゴンにいたので、ベトナム人の老若男女が派手に旧正月を祝うのがよくわかった。大通りはイルミネーションや垂れ幕などで飾られ、その中を多くの人たちがそぞろ歩いていた。どこのレストランでも、若者たちが酒を飲んで、大はしゃぎしていた。そこにはつい最近までの戦争の面影や貧しいベトナムの姿はまったくなかった。ベトナムは変わった。

A開店休業の工業団地

井川氏の案内で、開高健が取材中に戦闘に巻き込まれたというベンキャットに行ってみた。ところがそこは、一大工業団地に様変わりしていて、戦闘の跡などはまったく見出せなかった。しかしその団地には人影が少なく、いわば開店休業状態であった。建設途中で放置されているような建物があったので、ガイドさんに聞いてみると、それは韓国企業のもので、どうも資金不足のため止まっているようだという。リーマンショック以降、ベトナムでも中国同
様、景気が悪く、韓国企業の夜逃げなども結構あるようだった。また人件費もどんどん上がってきており、労働集約型企業の中には、ベトナムから撤退する会社も少なくないという。

B産業構造の高度化を目指す

ベトナム共産党は1月19日、チョン新書記長の就任と政治局の新体制を発表し、同時に「2020年までには近代的な工業国となる」ための10か年計画を決めた。その中でチョン新体制は、経済成長の質を高めるためには、輸出の拡大とともに急速な輸入増加を抑制する政策が必要であり、ハイテク産業など産業構造の高度化が急務であるとした。しかし中国同様、産業構造の高度化は、従来のような他力依存型では到底達成できないことは明白である。これからの10年間こそが、米国と中国を相手に戦争を戦い抜いたベトナム人民が、まさにその自力更生型の力を試されるときではないかと、私は考えている。

C資本家の入党

ベトナム共産党は今大会で、「資本家・経営者の入党を試験的に解禁する」と発表した。これも中国に見倣ったもので、資本家・経営者の入党を進め、経済分野の「自由化、市場化」を加速させ、外国からの投資を加速させ、産業構造の高度化を目論むものである。しかしながら、すでに労働集約型外資はベトナムを離れる傾向にあり、ベトナム共産党の思惑通りに事が円滑に運ぶとは、私は思わない。

Dベトナム北部から中国へ人身売買

1月28日付けの朝日新聞は次のような記事を載せている。「ベトナム北部の少数民族地域から、若い女性が次々と連れさられている。行き先は国境を接する中国。犯罪組織の手によって、売春婦や中国人の妻として売り飛ばされているという」。これは、にわかには信じられない話だが、朝日新聞の古田記者の現地(ラオカイ近辺)取材によるものだけに、一概に否定することもできない。ミャンマーやラオスと中国との国境沿いでは、中国の国外であるミャンマー側やラオス側に歓楽街ができており、そこに大量の中国人が遊びに来ており、接待する女性も四川省あたりから流れ込んでいる。つまりベトナム北部とは様相を異にしている。私も一度、現地取材に行ってみたいと思っている。

E崩落したカントー大橋

2007年9月26日、メコンデルタのビンロン省カントーで、建設中の鉄橋が崩落し、死者54名、負傷者80人の大事故となった。この鉄橋は、日本のODAを使い、大成・鹿島・新日鉄のJVで進められており、全長16キロで、複数の鉄柱から吊ったワイヤロープで橋桁を支える「斜張橋」だった。原因は、おりからの豪雨による地盤が軟弱化したことなどが、考えられている。
今回、そのカントー大橋を通ることができた。事故の面影はすでになく、綺麗で立派な橋が大河にかかっていた。

7.歴史余話  以下は旅行中に井川氏から聞いた話を、まとめ直したものである。

@阿倍仲麻呂

遣唐使として中国に渡った阿倍仲麻呂は、帰国を許された753年、船上で「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌を詠んだといわれる。ところがその船は、遭難しハノイに漂着してしまった。艱難辛苦の末、再び唐の都長安に戻った仲麻呂は、その経験を請われてか、数年後、ハノイの安南都護府の役人として赴任する運命となる。そして再び、日本の地を踏むことはなかった。

A蒙古襲来

元のフビライはベトナムに3度目の侵攻を行った。ベトナムでは元は本来、日本への3度目の遠征を計画していたが、ベトナム征服を優先したことで、日本侵攻を中止せざるを得なかったと見ている。フビライは前2回の失敗に懲りて、十分に糧秣の補給を行い、1286年、ベトナムに攻め込んだ。しかしその大軍を、ベトナム軍の総指揮をとったチャン・クォック・トアンは陸では苦戦したが、ハロン湾にそそぐバクダン江の複雑な水流を生かした作戦で、見事に元の水軍を撃退した。その結果、フビライはベトナム侵攻も日本遠征も共に諦めざるを得なかったという。以上は「物語 ヴェトナムの歴史」(小倉貞男著 中公新書)による。

B鄭成功  ※鄭成功については、09年6月の拙論「鄭成功と毛沢東」参照。

私は2009年6月、鄭成功の足跡を辿って、長崎の平戸、中国福建省厦門・泉州、台湾の台南を訪ね歩いた。中国では、明末の功臣である鄭成功の母親が日本人であることを明示している場所は少なかった。逆に台湾では、鄭成功軍の前衛が、日本人部隊であったことが明示され、その甲冑や刀が陳列してあった。当時は3代将軍家光の時代で、食い詰めた浪人たちが鄭成功陣営に加担したのだという。その鄭成功が清軍に敗れ、台湾に逃げ延びることになったとき、その兵の一部や明の遺臣数千人が、ベトナムのメコンデルタにも流れて来たという。当時、メコンデルタにはクメール人がいたが、それを駆逐し、住み着いたわけである。

Cバルチック艦隊

1905年4月、バルチック艦隊はベトナムのカムラン湾に集結し、補給や増援部隊などとの合流を目指した。ところがこの地を領有していたフランスは、イギリスの圧力などによって、バルチック艦隊の寄港を許さず、湾外に追い出した。もちろん石炭・水などの補給もさせなかった。バルチック艦隊はベトナム沖で彷徨せざるを得ず、その結果、兵員の士気は著しく阻喪した。これがバルチック艦隊の日本海海戦における敗因の一つとなった。

D黄埔軍官学校  ※黄埔軍官学校については、09年10月の拙論「黄埔軍官学校」参照。

2009年10月、私は広州の黄埔軍官学校跡を訪ねた。そこで私はこの軍校を卒業した軍人たちの名簿を見ながら、その後、国共両陣営に別れて激しく戦い、やがて新中国建国に導いたということを再確認した。ただしベトナム人のグエン・ソンの活躍については、今回、井川氏に指摘されるまで知らなかった。

1920年代、孫文の率いる国民党はソ連への共感を深めており、広州に黄埔軍官学校を作り、ソ連の軍人を教官に招いていた。その広州にコミンテルンは、ホー・チ・ミンをソ連政府顧問の通訳という名目で派遣した。当時ファン・ボイ・チャウの運動は閉塞状況に陥っており、広州にはファン・ボイ・チャウなどの考えには飽き足らなくなっていたベトナム人の青年たちが集まっていた。その中の一人、グエン・ソンは黄埔軍官学校に入っていた。ホー・チ・ミンはグエン・ソンに中国共産党と共に革命闘争に参加するように指示し、広州を離れた。その後、グエン・ソンは毛沢東の長征に参加し、延安までたどり着いた。グエン・ソンは長征に参加した唯一のベトナム人であった。1945年、グエン・ソンはホー・チ・ミンの求めに応じベトナムに戻ったが、反中感情の強いベトナムでは、その実力を発揮できず、1950年、再び中国に戻り、中国人民解放軍の現代化に貢献した。

E光州事件  ※光州事件については、2010年6月の拙論「光州事件とソウル五輪」参照。

2010年6月、私は韓国の「光州事件(1980年5月)とソウル五輪」と「中国の天安門事件と北京五輪」の相似性に着目し、それを現場で検証するために韓国の光州事件の跡地をくまなく歩いた。そしてそのとき、光州事件が天安門事件とはかなり様相を異にしており、そこでは銃撃戦が行われ、いわば内戦状態であったことを知った。蜂起した学生や民衆を殺戮したのは、対北朝鮮用の特殊空挺部隊であったが、同胞をいとも簡単に殺していくその残虐さには驚いた。

今回、井川氏からベトナム戦争時の韓国兵が、きわめて残虐であったということを聞いて、光州事件にもその影響が色濃く残っていたのではないか、あるいは民衆の間にも武器の使用に慣れたものが多く、それが銃撃戦にまで発展させた大きな要因なのではないか、などと考えた。


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